2019/02/08

今、NATOは何の為に必要なの?



コメント欄からのご質問
今、NATOは何の為に必要なの?

回答
1、世界の安定を保つため。
2、軍事バランス、パワーバランスの均衡、拮抗を保つため。
3、政治不満などの内圧を外部に向けさせるため。
4、コストパフォーマンスに優れた防衛戦略として。

継ぎはぎのやっつけで作ったパッチワークなんやけど、以下歴史的経緯を踏まえながら解説。サミュエル・P・ハンティントン著、『文明の衝突』はお薦めです。

ときは、19世紀末。ヴィクトリア女王を君主とする大英帝国は黄金時代で、インドはイギリスの経済を支える重要な植民地だった。栄光の時をむさぼるイギリスの背後に、ロシアが忍び寄ってくる。植民地インドでは、南下政策をとって不穏な影を投げかけてくるロシアとイギリスの間で、諜報合戦が人知らず繰り広げられていた。
主人公のキムは、インド生まれのイギリス人。イギリス人でありながら、土地の言葉を巧みに操り、ヒンドゥー小僧のいでたちで路地を駆け巡る。
イギリス人でありながらイギリス人らしく育てられたことのなかったキムは、自分は何者なのかを問い続け、その疑問が明らかになる日を夢見て生きていた。
ラマ僧と旅を続けているキムは、実は、別の顔を持っていた。キムは、極秘の英才教育を施された、第一線で活躍する超一流のスパイなのだ。諜報合戦は熾烈を極める。だが、そのなかにあって、キムに勝るスパイはいない。少年らしいあどけなさを見せながら、実は誰よりも抜け目なく使命を果たすキムの姿は、彼の出自のように、不思議でなぞに満ちている。http://jisyameguri.jugem.jp/?eid=38

作者ラドヤード・キプリング(1865 - 1936)は、1907年にノーベル文学賞を受賞している『ジャングル・ブック』を書いたイギリスの作家である。『ジャングル・ブック』も『少年キム』も、イギリス統治下のインドが舞台だ。そう、すべてはここから始まるのである。アングロサクソンとスラブ系民族の対立が。そしてそれが引き継がれ東方正教会文明と、西欧文明の対立として昇華していくのである。
グレート・ゲーム(The Great Game)、中央アジアの覇権を巡るイギリス帝国とロシア帝国の敵対関係・戦略的抗争を指す、中央アジアをめぐる情報戦をチェスになぞらえてつけられた名称。イギリスの作家ラドヤード・キップリングの小説『少年キム』(1901年)により広く使われるようになり、なかば歴史用語として定着した。



1800年代初頭に始まるこのゲームは、世界の一体化(グローバリゼーション)が進行するなか、帝国主義時代の空白域となっていた中央アジアに対し、先鞭をつけて緩衝国化することが英露双方の重大な関心事となったことで始まる。実際の英露抗争は、ユーラシア大陸の別方面、極東においてより激しく争われた。英露抗争に関する国際政治史には、大英帝国・ロシア帝国(のちにソビエト連邦)に加えて日本・アメリカ合衆国・中国や多数の周辺諸国がプレーヤーとして参加しており、途中からは米ソ両超大国の争いへ継承され、現代においても多数のプレーヤーが参加するという経緯を辿った。極東方面での諸国間の抗争はグレート・ゲームの盛衰と切り離せなかった。

ロシア南下政策の最大の目的は、年間を通して凍結することのない「不凍港」の獲得だった。ロシアの国土は、冬が長く、寒冷・多雪などといった現象をもたらし、一部を除けば農業生産は必ずしも高くない。ここでは高い密度の人口を支えることが困難であり、人々はよりよい環境を求めて未開発の周辺地域に移ろうと努める。なかでも、より温暖な南方の土地を求める願望には根深いものがある。18世紀以降海洋進出に乗り出したロシアは広大な面積を有するものの、ユーラシア大陸の北部に偏って存在するため、国土の大部分が高緯度に位置し、冬季には多くの港湾が結氷する。そのため、政治経済上ないし軍事戦略上、不凍港の獲得が国家的な宿願の一つとなっており、歴史的には幾度となく南下政策を推進してきた。人口においても資源において西欧諸国とは比較にならない大国ロシアが不凍港を獲得し本格的に海洋進出を始めることに対して、西欧諸国は地政学の見地から並々ならぬ脅威を感じ、ロシアの南下政策を阻止することに非常な努力を注ぎ、この衝突が19世紀の欧州史における大きな軸となった。

ロシア帝国の南下政策は、主にバルカン半島及びオスマン帝国、中央アジア、中国及び極東の三方面において行われた。ロシア自身がスラヴ民族とギリシア正教圏(東方正教会)の盟主を自負していたこともあり、バルカン半島においては汎スラヴ主義と連動し当地での民族国家樹立を後押ししたが、一方では宗教も絡み、オスマン帝国、オーストリア=ハンガリー帝国との対立の要因ともなった(汎スラヴ主義・東方正教会・マルクス主義、社会主義)。
ロシア革命後のソビエト連邦は、帝国主義に基づいた膨脹政策を放棄したものの、当初は公然と革命輸出を唱えていたこともあり、革命の波及を恐れる列強によって封じ込め政策の対象となる。冷戦時代になると、社会主義陣営を拡張する動きが、かつての南下政策と同様の図式で語られることが多かった。



年表
1853年クリミア戦争、欧州列強がオスマン帝国を支持。
1855年日本(江戸幕府)との間に日露和親条約締結。
1875年樺太千島交換条約を締結。樺太全島がロシア領になった。

アフガン戦争、第一次(1838年 - 1842年)と第二次(1878年 - 1881年)、アフガン戦争は19世紀に繰り広げられたグレート・ゲームの一環として、中央アジアに進出したロシア帝国がインドへと野心を伸ばしてくることを警戒したイギリスが、先手を打ってアフガニスタンを勢力圏に収めるために行った軍事行動であり、第二次アフガン戦争によってイギリスはアフガニスタンを保護国とした。

1877年、露土戦争、ロシアはオスマン帝国に完全勝利。サン・ステファノ条約によりバルカン半島の覇権を握った。翌年に列強の圧力によりサン・ステファノ条約は破棄される(ベルリン会議)。ただし全ての南下政策が終了した訳ではなく、バルカン半島のスラヴ民族の独立抵抗は継続され、これに欧州列強による帝国主義が関わり、衰退するオスマン帝国に対する東方問題、南下政策に代わるロシア帝国の汎スラヴ主義がバルカン半島の火薬庫として燻り続け、第一次世界大戦の伏線となる。
ヨーロッパにおける南下の限界を知ったロシアはアジアにおける南下進出を図る。18世紀末以降、不凍港問題を解決するために、ロシアはインド、ペルシアに目を付け、当時海上覇権を確立しつつあったイギリスと衝突する様になる。19世紀末には中国北東部を拠点として朝鮮半島・中国中央地域支配をもくろむも、当時国力を高めつつあった日本の干渉により難航。

1880年 - 1902年、ボーア戦争、イギリスとオランダ系アフリカーナーが南アフリカの植民地化を争った、2回にわたる戦争。ボーア戦争の損害は甚大であった。国庫が傾くほどの膨大な戦費が費やされて、イギリス人・ボーア人側双方とも戦死者・戦病死者2万人を超え、またイギリスはボーア人ゲリラへの支援を防ぐため各地に強制収容所を創設してボーア人婦女子を収容した結果、そこでも2万人以上の死者が出た。イギリスは、ボーア戦争で予想に反した苦戦を強いられ、オランダの背後にあるドイツ帝国を脅威と受け止めた。ボーア戦争の不振とドイツ帝国による積極的な外交攻勢に悩まされていたイギリス本国では、光栄ある孤立(Splendid Isolation)を放棄。クリミア戦争終結後のイギリスは、強大な経済力とイギリス海軍を中心とした軍事力を背景にした等距離外交を展開することによりヨーロッパの勢力均衡を保っていた。しかしアメリカ合衆国やドイツ帝国といった後発国の発展により、1870年代頃からイギリスの圧倒的な軍事的・経済的優位にも翳りが見え始めた。更にドイツを中心とした三国同盟とフランスを中心とする露仏同盟が形成されると、ヨーロッパの主要国のほとんどがそのいずれかに傾斜するようになり、イギリスのヨーロッパ外交における孤立が深刻化してきた。そしてボーア戦争で予想に反した苦戦と消耗を強いられた事により、非同盟政策の前提であるヘゲモニー保持に不安の見え始めたイギリスは1902年、光栄ある孤立を放棄し、ロシアの南下(南下政策)に対する備えとして、義和団の鎮圧で評価を受け、極東においてロシアと対立の深まりつつあった日本と日英同盟を結ぶことにより孤立は終結することとなる。

1891年、シベリア鉄道が着工。
1895年、三国干渉、フランス、ドイツ帝国、ロシア帝国の三国が日本に対して、清との間に結ばれた下関条約に基づき日本に割譲された遼東半島を清に返還することを求める
1901年、『少年キム』出版、イギリスの作家ラドヤード・キップリングの作品。時代背景を上手く捕らえ、1907年にはノーベル文学賞を受賞。受賞理由は「観察力、想像の独創性、着想の力強さ、及びこの世界的に有名な作家の作品を特徴づける語りの非凡な才能を考慮した」と述べている。
1902年、日英同盟が締結される。大韓帝国の支配権をロシアと争う日本と、ロシアの海洋進出を恐れるイギリスの、栄光ある孤立を見直すきっかけに。
1904年日露戦争。南樺太を奪われ朝鮮進出も絶望的になると、中央アジア進出を積極的に行うようになった。
1922年、ロシア革命により、ソヴィエト社会主義共和国連邦が誕生すると政情不安のため一時期南下政策は中断された。
1945年にソ連対日参戦をし、南樺太と千島列島を占領。戦後に北方領土問題となる。
1969年 - 中ソ国境紛争
1979年 - アフガニスタン侵攻
1994年 - チェチェン紛争
2008年 - 南オセチア紛争
2014年 - 2014年クリミア危機



19世紀初頭のイギリス、世界各地を植民地化・半植民地化して繁栄を極める絶頂の時、一人の少女が聖職者・将官・政治家たちの群衆の真ん中を悠然と歩いていき玉座に座る、イギリス中で最も権威ある男たちが一人の少女に騎士の誓いを捧げる。その光景を、一人の男が憧れを抱き、今の自分では望むべくもないが、いつの日か自分も女王の前に膝まづいてその手にキスをして騎士の忠誠を捧げたいと願ったという。1837年6月に国王ウィリアム4世が崩御し、18歳の姪ヴィクトリアが女王に即位した。ヴィクトリア女王が即位の日に初めて開いた枢密院会議。彼女が開催した最初の枢密院会議に出席すべくケンジントン宮殿を訪問した枢密顧問官リンドハースト男爵に、カバン持ちとしてその男は同行した。

そして31年後、この男はヴィクトリア女王の召集を受け、ワイト島にある女王の離宮オズボーン・ハウスを参内した。女王の前に膝まづくと彼女の手にキスをし、「忠誠と信頼の心に愛をこめて」と述べた。この男こそベンジャミン・ディズレーリ、当時大蔵大臣・庶民院院内総務。1868年2月、保守党の首相ダービー伯爵が病気で退任し、ヴィクトリア女王に辞表を捧呈した。その際にディズレーリ以外に党内をまとめられる者はいないとして彼に大命降下するよう助言した。保守党内では、大半の者は後任はディズレーリ以外には考えられないという認識だった。そこで組閣を命じられたディズレーリは承諾し、第一次ディズレーリ内閣成立。ヴィクトリア朝の長い歴史の中で数多く輩出された首相たちの中でも最もヴィクトリア女王に寵愛された首相である。

ヴィクトリアは娘ヴィッキー(ドイツ皇后にてドイツ皇帝・プロイセン王フリードリヒ3世の妃。ヴィルヘルム2世の母)宛ての手紙の中で「ディズレーリは一風変わったところもあるが、非常に聡明で、思慮深く、懐柔的な面を持つ」「彼は詩心、創造性、騎士道精神を兼ね備えている」と書いている。
ヴィクトリアから寵愛を受け続けたディズレーリは「女王陛下とうまく付き合うコツは、決して拒まず、決して反対せず、(受け入れ難い女王の要求に対しては)時々物忘れをすることだ」と語っている。
ヴィクトリアは直情径行、我がまま、短気で、理屈は通らない人物だった。ヴィクトリア自身も自らが「矯正不可能」なほど「意見されると感情が激高しやすい性格」であることを語ったことがある。

ヴィクトリア 女王(1819年 - 1901年、在位:1837年 - 1901年)
ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli、1804年 - 1881年)。



第2次ディズレーリ内閣が発足した頃、大陸では普仏戦争(1870年 - 1871年)に敗北したフランス共和国が凋落し、ドイツ帝国が大陸の覇権的地位を確立していた。更にドイツはロシア帝国やオーストリア=ハンガリー帝国と結託して保守的な三帝同盟をつくっていた。ディズレーリは三帝同盟弱体化をイギリス外交の目標に据えたのである。
三帝同盟は決して盤石ではなかった。ロシアは、普仏戦争でドイツを支持したが、戦後のドイツの増大化とフランスの弱体化を懸念していた。また、この頃のロシアは汎スラブ主義が高揚しきっており、バルカン半島の覇権をめぐってオーストリアとの対立が絶えなかった。それをドイツ宰相ビスマルクが強引に結び付けている状況だった。そのため三帝同盟を切り崩すチャンスはすぐにも訪れた。

オスマン=トルコは、かつての繁栄の残滓でバルカン半島、小アジア、中近東、北アフリカにまたがる巨大な領土を領有していたが、この時代にはすっかり衰退し、常にロシアから圧迫され、国内では内乱が多発していた。すでにギリシャには独立され(ギリシャ独立戦争)、エジプトも事実上独立していた(エジプト・トルコ戦争)。イギリスの庇護で何とか生きながらえている状態だった。イギリスにとってもオスマン=トルコを生きながらえさせることは死活問題だった。インドへの通商路は陸路の場合はオスマン=トルコ領を通らずにはすまなかったし、海路もスエズ運河が大きな役割を果たすようになっていたから、もしオスマン=トルコ領がロシアの手に墜ちるなら、イギリスの「インドの道」は陸路も海路もロシアの脅威に晒されることになる。ディズレーリとしてはオスマン=トルコを支援するしかなかった。

1875年にバルカン半島のキリスト教徒のスラブ民族に対して残虐行為を行うオスマン=トルコ帝国の支配に対してスラブ民族が蜂起した。1877年には汎スラブ主義を高揚させたロシア帝国がバルカン半島支配権をめぐってトルコに戦争を挑み、露土戦争が発生した。ディズレーリ首相は親トルコの立場を取ったが、トルコのキリスト教徒への残虐行為から議会・国民世論から強い反発を受けた。ディズレーリを寵愛するヴィクトリアさえもがディズレーリに「なぜトルコのキリスト教徒虐殺に抗議しないのか」と詰め寄っている。

だがディズレーリはバルカン半島をスラブ人小国家郡の割拠状態にしてしまうとロシアの食い物にされるだけと考えていた。ヴィクトリアもこれについては同じ考えであり、彼女はトルコ批判者が主張するようなトルコを処罰してその国土を分割せよというような案はロシアを利するだけとして批判した。また「トルコの野蛮性」を盛んに主張する英国世論が「ロシアの野蛮性」を主張しないことも不可思議に思っていた。

露土戦争は終始ロシア軍の優位で進み、ヴィクトリアはロシアに対する危機感を強めた。ロシア外相アレクサンドル・ゴルチャコフ公爵はスエズ運河、ダーダネルス海峡、コンスタンティノープルを奪ってイギリスの権益を侵すような真似はしないので中立を保ってほしいとイギリス政府に依頼していた。もっともロシアはイギリス国内の世論状況をよく調べており、イギリスがオスマン=トルコ側で参戦するなど到底できないことを知っていた。そのため約束を守る気などなく、ロシア皇帝アレクサンドル2世は軍司令官に「目標コンスタンティノープル」という命令を下している。

ヴィクトリアはロシアの約束など全く信じていなかった。ヴィクトリア女王はロシアの膨張を恐れるようになり、ディズレーリに退位をちらつかせて対ロシア参戦を要求するようになった。対ロシア開戦に消極的な外相ダービー伯爵(かつての首相ダービー伯爵の息子)を批判し、ディズレーリ首相に軍を出動させるよう発破をかけ続けた。ソールズベリー侯爵夫人はこの頃のヴィクトリアの状態を「自制心を失っており、閣僚たちをこづきまわしては戦争へ持っていこうとした」と評している。1878年1月にはディズレーリに宛てた書状の中で「私が男だったら自ら出ていって、あの憎たらしいロシア人どもをぶちのめしてやるのに」と激昂している。

女王の寵愛を自らの内閣の重要な要素と考えているディズレーリとしては、女王の意思をないがしろには出来ず、彼も8月頃から参戦の必要性を考えるようになった。結局ディズレーリ首相は軍に臨戦態勢に入らせながらも参戦しないまま、3月にはトルコとロシアの間にサン・ステファノ条約が締結された。この条約によりトルコはヨーロッパにおける領土をほぼ喪失し、ロシアはトルコから90キロに及ぶ黒海沿岸地域の割譲を受け、さらにエーゲ海にまで届く範囲でバルカン半島にロシア衛星国大ブルガリア公国が置かれ、地中海におけるイギリスの覇権が危機に晒された。またアルメニア地方のカルスやバトゥミをロシアが領有し、イギリスの「インドへの道」も危険に晒された。イギリスの権益など形だけしか守られていないこの条約に英国世論もヴィクトリアも激高した。ディズレーリもロシアに対して大ブルガリア公国建国の中止、アルメニア地域のロシア領土の放棄を要求し、ロシアが拒否するならイギリスもキプロスとアレクサンドリアを占領すべきと主張するなど強硬姿勢を示すようになった。

ディズレーリは駐英ロシア大使ピョートル・シュヴァロフ伯爵に対してこのような条約は認められないとして、大ブルガリア公国の建国中止、アルメニア地域で得たロシア領土の放棄を要求した。シュヴァロフ大使は「それではロシアの戦果がなくなってしまうではありませんか」と答えたが、ディズレーリは「そうかもしれないが、それを認めないならイギリスは武力をもってそれらの地からロシアを追いだすことになる」と通告した。

「公正な仲介人」としてドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクが仲裁に乗り出してきて、1878年6月から7月にかけてベルリン会議が開催されることとなった。会議にはイギリスからは首相ディズレーリと新外相ソールズベリー侯爵が出席することとなった。ロシアはドイツの支持を当て込んで(またすでにイギリスを半ば敵に回しているのにドイツまで敵に回すわけにはいかないので)ビスマルクが提唱する露土戦争の戦後処理国際会議ベルリン会議の開催に賛同した。ディズレーリは自らがベルリン会議に出席する決意を固めたが、ヴィクトリアは「ディズレーリは健康を害している。彼の命は私と我が国にとって重要な価値があり、危険に晒されることは許されない」として反対した。だがディズレーリは「鉄血宰相」と対決できる者は自分しかいないと主張して女王を説得した。

ディズレーリには会議で強硬姿勢をとれるだけの条件が整っていた。指を鳴らして対ロシア開戦を待ちわびている好戦的な女王と国民世論を背負い、さらにコンスタンティノープル沖ではイギリス海軍が臨戦態勢に入っていたからである。会議前の外相ソールズベリー侯爵とシュヴァロフ大使の交渉・秘密協定の段階ですでに大ブルガリア公国南部のトルコへの返還などロシアから譲歩を引き出すことに成功していた。
会議でディズレーリは徹底的な強硬路線を貫き、ロシアが反対するなら会議が決裂するだけであると脅迫して、イギリスの主張をほとんど認めさせた。会議の途中にビスマルクとシュヴァロフが譲歩を拒否した時、ディズレーリは帰国の準備を命じ、それを聞いたビスマルクはただの脅しだと思っていたが、本当に英国代表団が荷造りをしているので、やむなく譲歩したという逸話まである。

ベルリン会議でディズレーリはアジアに通じる大英帝国通商路を守るために全力を尽くした。ベルリン会議の結果、大ブルガリア公国は分割された。その南部は東ルメリア自治州としてオスマン=トルコに戻され、ロシアのエーゲ海への道は閉ざされた。さらにイギリスはキプロス領有が認められ、東地中海の覇権を確固たるものとした。全体的に見ればイギリス外交の大勝利であった。またこの会議でロシアがビスマルクに不満を抱くようになったこともディズレーリにとってはおいしかった。ディズレーリは会議から2年後に「我々の目標は三帝同盟を打破し、その復活を長期にわたって阻止することだったが、この目標がこんなに完璧に達成されたことはかつてなかった」と満足げに語っている。ビスマルクも「あのユダヤ人の老人はまさに硬骨漢だ」と驚嘆したという。



ここからロシアの地中海、中央アジアの南下政策が潰え、グレートゲームが極東へと変遷していくのである。1902年にはロシア帝国の極東進出政策への対抗を目的として日英同盟が締結された。19世紀の極東では、イギリス東インド会社を通商から締め出し、ライバルのオランダ東インド会社に欧州との交易を独占させた徳川幕府が支配するこの国を、イギリスを出し抜いた米国が開国させた頃、イギリスも遅ればせながら関係を持つことになった。 きっかけは大名行列を横切ったイギリス人達が殺傷された生麦事件だった。その報復のために差し向けたイギリス側艦隊は鹿児島城下を炎上させたが、油断のせいで旗艦が被弾するという被害を受けた(薩英戦争)。
これ以降、フランスに傾斜する幕府にかわる友好勢力としてイギリスは薩摩藩に新鋭兵器を提供し、徳川幕府を転覆させることに成功する。この関係は薩摩藩とその友藩が日本の支配権を確立すると一層深まり、イギリスは極東の日本に近代海軍を建設する大事業に関与して行く。

イギリスは植民地で幾多の現地人による軍隊を組織し、その征服事業の手足として用いてきたが、装備を持ち込んで訓練を与えれば、それなりの形になった軍隊が出来上がる。また日本人も自力で近代軍を作り出すことに成功した。しかし海軍、それもロシアの有する海軍(イギリスの基準からすれば“沿岸警備隊”程度だったとはいえ)と拮抗できるだけの海軍を、日本に自力で保有させるには、近代的な鉱工業と造船技術に加え、最低でも数十年の外洋での経験が必要だと思われた。

イギリスの目的は、1880年頃に計画され始めたシベリア鉄道が完成を迎える20世紀までに、この鉄道が軍事的空白地帯である満洲と朝鮮に流し込むであろう大量の兵士と軍需物資を、日本が撃退できるだけの戦力を準備させることにあった。日本の新しい政府を構成した武士達は、もともとが攘夷論を信奉していたが、その目的を達成するために世界でも例を見ない急速な欧化政策にアジアで唯一成功した。

イギリスが彼らに協力することで、その方向をロシアとの対決に誘導するのは簡単なことだった。なによりロシアから見れば、日本の近代的軍備はロシアとの一戦のために準備されているようにしか見えないのだから、ロシアの取り得る選択肢は日本を懐柔するか、まだ貧弱な軍備しか持たないうちに叩くか、そのどちらかしかない。
イギリスにとって幸いだったのは、日本人が欧州諸国から最良の相手を選んで学ぶ賢明さを有していたことで、1865年に幕府がロシアに派遣した留学生は公式に失敗だったと見なされるなど、多くの点で欧州の中で後進的地位にあったロシアから日本人が積極的になにかを学びたいと望むことはなく、ロシアが日本に与えられる餌は何もなかった。

1904年(明治37年) - 日露戦争開戦。結果はご存知の通りロシアは欧州の国家として初めてアジア人の国家に敗れるという屈辱を味わったが、犠牲は最小限に喰い止められた。しかし、このショックがロシアの対外進出への積極性を失わせた。かくして英露間のゲームに、曲がりなりにも独立国である清国と、日本・清国・ロシアいずれかの属領と認識されていた満洲・朝鮮を巡る、新興国家である日本の生死をかけた戦い、という新しい盤面とプレーヤーが加わった。




経済学の父、アダムスミスが予見したイギリス、産業革命が本格化する最中のルール変更、重商主義から自由主義へ。
アダムスミス(1723年 - 1790年)は重商主義の批判者であり、自由主義、資本主義システムの生みの親です。この時期イギリスは最も繁栄した時代でした。七年戦争と北米フレンチインディアン戦争で勝利をおさめ、大英帝国は拡大し、インドでも権力をふるっていたのです。そんな時代にスミスが、この状況は問題が多い、他に方法があるはずだ、と主張したのです。驚くべきことでした。当時イギリスは、軍事力を背景にヨーロッパ諸国と熾烈な競争を繰り広げ、植民地との貿易で莫大な富を得ていた。スミスは安全保障を懸念する重商主義者が絶えず戦争を起こす状況に気づいていました。更にナショナリズムに囚われてはいけないことも。行き着く先は、帝国同士の対立です。植民地を増やそうと競争し、収益を増やし、黒字を目指す過程で戦争が避けられなくなるのです。スミスは帝国間の争いだけでなく、植民地が起こす反乱もあると主張しました。富の収奪とそれが引き起こす戦争のサイクル、重商主義という名の帝国主義を推し進めた末に、支払うことになるコストを見抜いていたのです。

イギリスは植民地経済が産み出す富の限界にぶつかり、一方で近代戦の質的変化により、気軽に手を出した南アフリカでの征服戦争で国庫が傾くほどの支出を強いられるようになった事態に、世界帝国という商法の黄昏を感じ取っていた。重商主義と植民地経営の見えないコストが一気に噴出したのである。実際のところ既にイギリスは、世界規模でのゲーム当事者としては体力の限界を迎えつつあり、その座を虎視眈々と狙っているのが新大陸の灰色熊だった。

極東におけるロシアの勢力拡張は、すでに日本によって頓挫させられており、その関心はバルカン半島へ向けられていた。当時のイギリスにとって危険な敵はドイツ帝国であり、欧州においてイギリスと軍拡競争を続け、オスマン帝国と結んで中東への進出を図っていた。そのためイギリスの、ロシア・フランスとの協調には、より多くの利益が見出されていた。ヨーロッパの火薬庫と呼ばれたバルカン半島はサラエボ、(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナ領、旧ユーゴスラビア)、第一次世界大戦の原因となったサラエボ事件へと繋がった行くのである。ボスニア・ヘルツェゴビナは1878年のベルリン会議でオーストリアが占領し、その後1908年には正式にオーストリア領に併合されていた。多くのボスニア住民、特にボスニアのセルビア人住民はこれに反発し、セルビアや他の南スラヴ諸国への統合を望んでいた。

第一次世界大戦ではイギリスとソ連の関係は一時的に提携関係が見られた。ソ連とイギリスが協力する時代に入ると、両強国間のグレート・ゲームは小休止した。この戦争は多くの参戦国において革命や帝国の解体といった政治変革を引き起こした。戦争の結果、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン、ロシアの4帝国が崩壊した。ロマノフ家、ホーエンツォレルン家、ハプスブルク家、オスマン家が権力の座を追われた。4つの帝国が滅亡解体された結果、9つの国が建国された。終戦後も参戦国の間には対立関係が残り、その結果わずか21年後の1939年には第二次世界大戦が勃発した。



しかし蜜月関係は続かない。冷戦の対立構造が生まれるのである。第二次世界大戦後の世界を二分した西側諸国のアメリカを盟主とする資本主義・自由主義陣営と、東側諸国のソ連を盟主とする共産主義・社会主義陣営との対立。米ソ冷戦や東西冷戦とも呼ばれる。第二次世界大戦が終わり、東欧を影響圏に置いた共産主義のソビエト連邦との冷戦が激しさを増す中で、イギリスやアメリカが主体となり、1949年4月4日締結の北大西洋条約により誕生したのがNATO北大西洋条約機構である。結成当初は、ソ連を中心とする共産圏(東側諸国)に対抗するための西側陣営の多国間軍事同盟であり、「アメリカを引き込み、ロシアを締め出し、ドイツを抑え込む」(反共主義と封じ込め)というヘイスティングス・イスメイ初代事務総長の言葉が象徴するように、ヨーロッパ諸国を長年にわたって悩ませたドイツ問題に対する一つの回答でもあった。加盟国は集団的安全保障体制構築に加えて、域内いずれかの国が攻撃された場合、共同で応戦・参戦する集団的自衛権発動の義務を負っている。一方、この事態を受けてソ連を中心とする東側8か国はワルシャワ条約を締結してワルシャワ条約機構を発足させ、ヨーロッパは少数の中立国を除き、2つの軍事同盟によって分割されることとなった。
またヨーロッパのみならず、アジア、中東、南アメリカなどでも、それぞれの支援する機構や同盟が生まれ、世界を二分した。この二つの陣営の間は、制限されているがために経済的、人的な情報の交流が少なく、冷戦勃発当時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルは、「鉄のカーテン」と表現した。アメリカ陣営とソ連のどちらにも与しない国家は「第三世界」と呼ばれ、それぞれの陣営の思惑の中で翻弄された。
第三世界の諸国では、各陣営の支援の元で実際の戦火が上がった。これは、二つの大国の熱い戦争を肩代わりする、代理戦争と呼ばれた。
1、朝鮮戦争。
2、ベトナム戦争。
キューバ危機は戦争の一歩手前までいった。

第二次世界大戦から冷戦を通じて、西欧諸国はNATOの枠組みによってアメリカの強い影響下に置かれることとなったが、それは西欧諸国の望んだことでもあった。二度の世界大戦による甚大な被害と、1960年代にかけての主要植民地の独立による帝国主義の崩壊により、それぞれの西欧諸国は大きく弱体化した。そのため各国は、アメリカの核抑止力と強大な通常兵力による実質的な庇護の下、安定した経済成長を遂げる道を持とうとした。

そんな盤面で起こったのが新グレート・ゲーム(The New Great Game)である。かつてソビエト連邦領だった中央アジアの国々のパイプライン建設を通して、石油と天然ガスの長期的な供給を確かなものにしようという中国、ドイツ、インド、日本、ロシア、韓国、イギリス、アメリカ間の競争関係のことである。
イギリスとロシアのこの地域における関係は、19世紀のグレート・ゲームに遡り、アメリカの中央アジア進出については、後発国とはいえ、1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻に遡る。1978年に成立したアフガニスタン共産主義政権を支えるために、ソ連がアフガニスタンに侵攻した。このため西側世論が反発して東西は再度緊張、ソ連が一方的にアフガニスタンに侵攻したことへの対抗処置として、アメリカ政府は1985年から1992年にかけてCIAらによる総額数十億ドル規模の極秘の武器供給などによる支援にて、オサマ・ビンラディンらを含むアフガニスタンの反共勢力「ムジャヒディン」を援助した。また、ソ連と対立する中国も毛沢東主義者のアフマド・シャー・マスード(反ソ連軍ゲリラの司令官)を支援して、これに対抗した。中央アジアに反テロの軍事基地を作ろうとする超大国(殆どはアメリカ)の思惑により状況は複雑になっていく。
影響は1980年モスクワオリンピックの西側ボイコットとして現れた。東側は報復として、1984年のロサンゼルスオリンピックをボイコットした。戦争を短期で終結させるソ連の目論見は外れ、侵攻の長期化によってソ連財政は逼迫し、アメリカは間接的にソ連を弱体化することに成功した。ソ連は国内情勢の変化によって1989年には泥沼のアフガンから完全撤退、世界から急速にソ連の影響力が弱まりつつあった。

人々は、このアフガニスタンの騒乱によって、世界には東西の陣営とは別にもう一つの勢力があることに気が付き始めた。それはイスラム主義と呼ばれる勢力であり、二つのイデオロギー対立とはまったく異なる様相を呈した。アフガニスタンではアメリカはソ連を倒すために、この勢力を支援したが、1979年イラン革命の際には、国際法を無視してアメリカ大使館が1年余りにわたり占拠されるなど、米ソに新たなる敵をもたらすこととなった。この際、アメリカは大使館員救出のために軍を介入させたが失敗、アメリカ軍の無力さを露呈した(イーグルクロー作戦)。このイラン革命によって中東は動揺し、1980年にイラン・イラク戦争となって火を噴いた。米ソはイスラム革命が世界に広がることを恐れ、イラクを援助して中東最大の軍事大国に仕立てた。戦争は長期にわたり、1987年には米軍が介入したが、決着のつかないままに終わった。しかし、この時のアメリカによる中東政策が、後の21世紀の世界情勢に大きな影響を与えることになった。アメリカによる中東への介入やグローバリゼーションに反感を抱くアルカーイダは、2001年にアメリカ同時多発テロ事件を惹き起こし、対テロ戦争と呼ばれるアメリカのアフガニスタン侵攻やイラク戦争となる。




1991年に東側諸国の盟主であったソビエト連邦が消滅したことにより、日米西欧をはじめとする西側陣営の勝利に終わった。1989年のマルタ会談で冷戦が終焉し、続く東欧革命と1991年のワルシャワ条約機構解体、ソ連崩壊によりNATOは大きな転機を迎え、新たな存在意義を模索する必要性に迫られた。1991年に「新戦略概念」を策定し、脅威対象として周辺地域における紛争を挙げ、域外地域における紛争予防および危機管理に重点を移した。
2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件への対応については、10月2日に北大西洋条約第5条を発動し、共同組織としては行動しなかったものの、アフガニスタン攻撃(アフガン侵攻、イスラム武装勢力タリバンをアフガン政府から追放した作戦)やアメリカ本土防空、領空通過許可等の支援を実施している。
2001年の911事件を契機とする米国の直接介入によって、再建されたアフガニスタン政権と、一度は崩壊しながらも復活を目指すタリバン勢力(旧アフガニスタン・イスラーム首長国)、対テロ戦争の名目で参加させられたNATO諸国、日米同盟の証として再参加させられた日本などが加わって、ロシアやイスラム原理主義、各民族の重武装化と軍閥化によって、新グレート・ゲームが続いている。

リーマンショックが引き金となった2008年の世界金融危機までは、米国が唯一の超大国として君臨していた。しかし、2008年以後の世界は、冷戦体制や米国一極体制によって抑えられてきた民族紛争や地域紛争が続発し、かつ冷戦体制や米国一極体制に基づく価値観が破綻を見せ、変化が多くなって流動性を増している。
そんな不確実性が高まったこの局面で起こったのがアラブの春やそれに続くシリア内戦、クリミア危機・ウクライナ東部紛争である。アフガニスタン戦争、イラク戦争で生まれた、権力の空白地帯に進出するイスラム国などの新たな勢力、そして今まで押さえ込まれていた民族自立を目指す機運が、対外的脅威の縮小に伴い、一気に内側に向かって爆発したのである。

アラブの春(Arab Spring)とは、2010年から2012年にかけてアラブ世界において発生した、前例にない大規模反政府デモを主とした騒乱の総称である。2010年12月18日に始まったチュニジアのジャスミン革命から、アラブ世界に波及した。
2012年に入ると政権の打倒が実現したエジプトやリビアでも国内の対立や衝突が起きるなど民主化に綻びが見られ始めた。また、遅れて反政府デモが盛り上がりを見せたシリアでは泥沼の内戦状態に突入し、国内のスンナ派とシーア派の対立やアルカイダ系の介入などによる火種が周辺国にも影響を及す恐れが懸念されるようになった。そして2014年には、元アルカイダ系のイスラーム過激派組織「ISIL」がシリアとイラクの国境をまたぎ台頭。フセイン政権崩壊、及びシリア内戦によるの権力の空白地帯で、旧イラク政権のイラク人が権力の掌握を目指し、地域情勢はこれ以降深刻な事態に陥っている。

冷戦後の世界では対外的脅威が無くなった東欧でも綻びが出てくる。もともとスターリンの庭だったこの地でも民族自立の機運が高まってくることに。共通の敵が居なくなれば、異なる民族は対立を起こすのである。
ことの発端は、ロシアの隣国であるジョージア、ウクライナがNATO加盟を目指していることに対し、経済が復興してプーチン政権下で大国の復権を謳っていたロシアは強い反発を示すようになった(新冷戦)。ロシアはウクライナ、ジョージアのNATO加盟は断固阻止する構えを見せており、ロシアのウラジーミル・プーチン首相は、もし2008年のNATO-ロシアサミットでウクライナがNATOに加盟する場合、ロシアはウクライナ東部(ロシア人住民が多い)とクリミア半島を併合するためにウクライナと戦争をする用意があると公然と述べた。そして、プーチンの言葉通りウクライナにおいて親欧米政権が誕生したのを機に(ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ政権崩壊、2014年ウクライナ騒乱)、クリミア共和国とセヴァストポリ特別市の一方的な独立宣言(クリミア共和国の成立)、それらのロシアへの編入の宣言に至った。クリミア半島及びウクライナ東部でロシアが軍事介入を行い、ウクライナ東部では紛争となっている(2014年クリミア危機、ウクライナ東部紛争)。




冷戦期において脅威とされていた共産主義勢力の次に出現した新たな世界秩序において、最も深刻な脅威は主要文明の相互作用によって引き起こされる文明の衝突であることが分かる。特に文明と文明が接する断層線(フォルト・ライン)での紛争が激化しやすい。
サミュエル・P・ハンティントン、文明の衝突、1996年、原題は『The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order』

文明は包括的な概念であり、広範な文化のまとまりであると考えられる。文明の輪郭は言語、歴史、宗教、生活習慣、社会制度、文化を背景とした価値観、さらに主観的な自己認識から見出される。人間は重複し、また時には矛盾するアイデンティティを持っているために、それぞれの文明圏に明確な境界を定義することはできないが、ある一定のまとまりを持って存在している。人々は血縁、宗教、民族、言語、価値観、社会制度などが極めて重要なものと見なすようになり、文化の共通性によって協調や対立が促される。そして全ての国は文化を共有する文明圏に参加し、協力しようとするが、文化的に異なるものには対抗、排除しようとする。これは安全保障や経済とは明らかに異なる行動原理であり、区別しなければならない。

古典的な国際政治学の問題とは政治的影響力、相対的な軍事力、繁栄や経済力、人間、価値観や文化、領土などがある。伝統的な国民国家は健在であるが、しかし行動は従来のように権力や利益だけでなく文化によっても方向付けられうるものである。なぜなら文化とは人間が社会の中で自らのアイデンティティを定義する決定的な基盤であり、そのため利益だけでなく自らのアイデンティティのために政治を利用することがあるためである。世界政治において文化やアイデンティティが重大な影響を果たすようになれば、「西側」、「東側」、「国民国家」などの国際政治の視座ではなく、文明の境界線にしたがって世界政治の枠組みは再構築されることになる(文明同士のブロック化)。近年の地域主義の進展によって、世界各地で文化摩擦と文化復興が見られる。同様にイスラム文明も台頭しつつあり、近代化を進めながらも西欧文化を拒否して独自のイスラム文明を再構築しようとしている。近年のイスラム復興運動とはこのような社会状況を背景とする文化的、政治的運動であり、イスラムの原理主義はその要素に過ぎない。

政治的独立を勝ち取った非西欧文明は西欧文明の支配を抜け出そうとしており、西欧文明との均衡を求めようとする。巨視的には西欧文明と非西欧文明の対立として理解できる。このような関係が敵対的なものになるにはいくつかの側面があるが、イスラム文明や中華文明、東方正教会文明(ロシア)は挑戦する存在として西欧文明と緊張関係にあり、場合によっては敵対関係になりうる主要文明である。ラテンアメリカ文明やアフリカ文明は西欧文明に対して劣勢であり、また西欧文明に依存的な態勢であるために対立することは考えにくい。つまり西欧文明にとって最も衝突の危険が高い主要文明はイスラム文明と中華文明、東方正教会文明である。
かつてのアメリカとソヴィエトによって形成されたイデオロギーの勢力圏に代って、それぞれの文明の勢力圏が新たな断層線、フォルト・ラインを生み出し、そこで冷戦中にはなかった紛争が頻発するようになっている。西欧の衰退に伴う西欧化への反発、冷戦の終結によるイデオロギーの影響力低下などの諸要因によって発生したと考えられる。




近代において圧倒的な影響力を与えた西欧文明は現在では二面性があり、それは圧倒的な優位を誇る先進的な文明という側面と、相対的に衰弱しつつある衰退途上の文明という側面である。このような西欧文明の衰退には極めて長期的な衰退であること、また不規則な進行で衰退すること、権力資源が量的に低下し続けていることといった特徴がある。特に領土、人口、経済生産、軍事力全ての面での相対的な衰退が始まっていることは顕著であり、21世紀においても西欧文明は最強の文明であり続けることが可能であったとしても、その国力の基盤は縮小していくことになる。

冷戦後の世界政治において主要文明の中核国は重要な役割を果たすようになっている。中核国は他国を文明の構成員に誘致し、また拒否する重要な行為主体である。ある文明の参加各国は中核国を中心に同心円に位置しており、中核国が持つ勢力圏は文明圏と一致し、その影響力は文化水準や文化の影響力などによって左右される。
文明の衝突とは、文明のフォルト・ラインにおいて紛争が勃発する形態であり、フォルト・ライン戦争はこれが暴力化したものを指す。フォルト・ライン戦争は必ずしも将来終結するとは限らない。なぜならフォルト・ライン戦争とは文明間の異質性に根ざしたフォルト・ラインによるものであり、地理的な近接性、異なる社会制度や宗教、歴史的記憶によって半永久的に引き起こされうるものである。古くは十字軍の遠征から現在に続くイスラム教とキリスト教の対立、そして19世紀から続くグレートゲームなど。冷戦期において脅威とされていた共産主義勢力の次に出現した新たな世界秩序において、最も深刻な脅威は主要文明の相互作用によって引き起こされる文明の衝突であることが分かる。世界の主要文明の中核国によって世界戦争が勃発する危険性は否定できない。なぜならフォルト・ライン戦争は最初の戦争当事者が一構成国であっても、その利害は必然的に文明全体に関わることになるためである。

大規模な文明の衝突という最悪の事態を回避するためには中核国は他の文明によるフォルト・ライン戦争に軍事介入することには注意を払わなければならない。ハンティントンはこの不干渉のルールと、文明の中核国が交渉を行い、自己が属する文明のフォルト・ライン戦争が拡大することを予防する共同調停のルールを平和の条件としている。そしてより長期的な観点から現在の不平等な文明の政治的地位は平等なものへと平和的に是正し、西欧文明と非西欧文明の衝突を予防する努力が必要であるだろう。ただしこれらの原則や政策は現状から考えて実施することは大きな困難である。しかし世界平和を求めるためにはそれまでとは異なる文明に依拠した政治秩序が必要であると結論する。

2017年にアメリカで大統領選挙中からNATO不要論を掲げたドナルド・トランプが大統領に就任すると、アメリカとそれ以外の軍事費負担の格差に不満を隠さなくなり、2017年7月にはトランプがNATO総長との朝食会の場で、ドイツなどに対して軍事費負担の少なさについて不満を展開。「こんな不適なことに我慢していくつもりはない」と主張するなど、アメリカの関与を縮小する意向を示している。2019年1月にはトランプがNATO離脱意向を漏らしたと報道された。




世界システムから考えるアメリカの覇権と今後。
イマニュエル・ウォーラステイン(1930年 - )が提唱する世界システム論によれば、世界システムとは、ひとつの分業体制に組み込まれた広大な領域のこと。国などのいかなる政治的単位をも超える規模を持つということから「世界」システムと呼ばれる。複数の文化体(帝国、都市国家、民族など)を含む広大な領域に展開する分業体制であり、周辺の経済的余剰を中心に移送する為の史的システムである。世界システムは世界経済と世界帝国に分類される。なお、ここで言う世界とは地球上すべてを覆う概念ではなく、より小さな地域的単位を含む。イスラム世界、地中海世界、東アジア世界、新世界、旧世界といった概念を思い浮かべると分かりやすい。
世界システム論からみたソ連は、世界が資本主義の「世界」と社会主義の「世界」に分断されていると理解されてきた冷戦時代から、「世界経済の一体性」を強調してきた。ウォーラーステインは、ソヴィエト連邦が近代世界システムのなかでアメリカ合衆国と政治的には敵対することで、むしろ機能的には世界経済を安定化させていると論じている。

世界システムとは言うものの、必ずしも地球全域を覆う規模に達している必要はなく、一つの国・民族の枠組みを超えているという意味で「世界」システムと呼ばれるのであり、中央(中核)・半周辺・周辺(周縁)の三要素による分業であり、歴史上、政治的統合を伴う「世界帝国」か政治的統合を伴わない「世界経済」、どちらか二つの形態をとってきた。
しかし過去において存在した世界システムと、16世紀に成立した「近代世界システム」が決定的に異なるのは、前者が世界経済から世界帝国へ移行したか、さもなくば早期に消滅したのに対し、後者は世界帝国となることなく政治的には分裂したまま存続している点である。ウォーラステインは近代世界システムのみが世界帝国となる事なく、そして衰退する事無く存在し続ける理由として世界的な資本主義の発展を挙げており、近代世界システムが多数の(言い換えれば世界システムに比較し小規模の)政治システムにより成り立っていた為、経済的余剰を世界帝国特有の巨大官僚機構や広域防衛体制に蕩尽する事無くシステム全体の成長に寄与させる事ができ、また経済的要因の作用範囲が個々の政体の支配範囲を凌駕していた為、世界経済は政治的な掣肘を超えて発展する事が可能となった、としている。

このように同じシステム内においても、中心・半周辺・周辺で役割と生産形態が異なるのが世界システムの国際的分業体制である。ウォーラステインによれば、近代世界システムにおいて世界経済のもたらす利潤分配は著しく中央に集中するが、統一的な政治機構が存在しないため、この経済的不均衡の是正が行われる可能性は極めて小さい。その為、近代世界システムは内部での地域間格差を拡大する傾向を持つ事になる。単線的発展段階論によれば「後進」周辺地域は「先進」西欧諸国と同じ道をたどり、やがて先進中央諸国に追い付く、少なくとも経済格差は縮まっていくはずであるが、この様な理由により、周辺は中央に対する原料・食料などの一次産品供給地として単一産業化されており、開発前の「未開発」とも、開発途中の「発展途上」とも異なる「低開発」として固定化されてしまっているのである。

世界システム内において、ある中心国家が生産・流通・金融の全てにおいて他の中心国家を圧倒している場合、その国家は「ヘゲモニー国家(覇権国家)」と呼ばれる。ウォーラステインによれば、ヘゲモニーはオランダ・イギリス・アメリカの順で推移したとされる。ただし、ヘゲモニーは常にどの国家が握っているというものではなく、上記三国の場合、オランダは17世紀半ば、イギリスは19世紀半ば、そしてアメリカは第二次世界大戦後からヴェトナム戦争までの時期にヘゲモニーを握っていたとされる。ヘゲモニーにおける優位は生産・流通・金融の順で確立され、失われる際も同じ順である。実際、イギリスが「世界の工場」としての地位を失った後もシティはしばらく世界金融の中心として栄え、アメリカが巨額の貿易赤字をかかえるようになってもウォール街がいまだ世界経済の要として機能している。これらに共通するのは、その国が覇権のピーク時に生産、流通(貿易)、金融の各分野であいついで優位に立ち、軍事・政治そして文化の各領域でその支配と価値を他国に強要できることである。しかしその覇権は失われ、再び列強が対峙する勢力均衡へと道をゆずる。そしてアメリカの影を脅かす中国、まずは世界の工場として、工業生産の基盤を固め、次は流通、フローを固め掛かっている。人、物、金、そして情報、最近のアメリカによるファーウェイやZTEの締め付けは、このフローを死守するため、ハイテク・情報産業を護送船団で守るためだろう。




そしてアメリカのこの覇権の崩壊を予測する学者が。。。
エマニュエル・トッド (1951年 - ) は、フランスの歴史人口学者・家族人類学者である。2002年の『帝国以後』は世界的なベストセラーとなった。経済よりも人口動態を軸に歴史を捉え、ソ連崩壊やイギリスのEU離脱、アメリカでのトランプ政権誕生を予言した。『帝国以後』 は、1991年のソ連崩壊以降、アメリカが唯一の超大国になったという認識が一般的であった。そのアメリカの中枢で起きた 911 テロから一年後の 2002年9月、トッドは『帝国以後』を出し、アメリカも同じ崩壊の道を歩んでおり、衰退しているからこそ世界にとって危険だと述べ、2050 年までにアメリカの覇権が崩壊すると予測し、世界的なベストセラーとなった。またその後のフランス、ドイツの外交の理論的な支えとなった。

20世紀の前半には、アメリカは民主主義の守護者と見なされ、また最も工業化され充足的な経済を持ち、世界にとって必要不可欠の存在であった。しかし後半には、かつてアリストテレスが指摘した民主制から寡頭制への変化が起きる。平等な民主主義は義務教育の普及により識字率が向上することで実現するが、さらに高等教育が一般的になると学歴による所得格差が生まれ、再び不平等を支持する階層が増えていくのである。また、アメリカは巨額の貿易赤字を出すようになり、外国資本の不断の流入を必要とするようになった。工業における決定的な技術的優位も失われた。こうして、世界が民主化される中でアメリカの民主主義は後退し、また世界経済がアメリカに依存しなくなる中でアメリカ経済は世界に依存するようになった。トッドはこれを二重の逆転と呼ぶ。アメリカがもはや世界にとって不要になりつつある時に、アメリカにとって世界は必要不可欠になっているのである。アメリカの経済力低下と地政学的孤立に対する不安をそこに見出す。

このためアメリカが採っているとトッドが考える戦略が、劇場的小規模軍事行動である。それが劇場的なのは、イラン、イラク、北朝鮮などの発展途上国を敵に回し、世界の主役として振る舞うことで、真の大国である EU、日本、ロシアと対決する力が無いことを隠すためである。またそれが小規模なのは、国力の低下とアメリカ陸軍の伝統的な無能さによる。アメリカが軍事的に最強なのは疑いがないが、全世界を相手にするにはむしろ貧弱である。海軍、空軍の優位は揺らぎ無いが、陸軍は無能であり、すでに第二次世界大戦のヨーロッパ戦線において弱さが露呈していた。朝鮮戦争では引き分け、ベトナム戦争では敗北している。アメリカ軍の伝統は物量と軍事技術で圧倒するインディアン戦争であり、湾岸戦争はこれを再現した。しかしローマ帝国のように帝国的空間を作るのは陸軍による占領であって、アメリカ軍は帝国を築くには弱すぎるのである。

経済的にはアメリカの弱体は一層明らかである。2001年の貿易収支は、主要な国家全てに対して赤字を出している。その赤字額は、中国に 830 億ドル、日本に 680 億ドル、EU に 600 億ドル(うちドイツに 290 億ドル、イタリアに 130 億ドル、フランスに 100 億ドル)、メキシコに 300 億ドル、韓国に 130 億ドル、イスラエルに 45 億ドル、ロシアに 35 億ドル、ウクライナに 5 億ドルである。しかもこの赤字は石油などの原料ではなく、工業製品の輸入によるものなのである。アメリカの国内総生産は巨大だが、これは価値が疑わしいサービス産業を含み、トッドは貿易収支のみを信頼できる指標と見なす。

ローマ帝国を支えていたのは属領からの貢納物であったが、アメリカが帝国であるとすれば、その属領は日本と西欧である。1998年の在外アメリカ軍は 259871 人であり、そのうち 60053 人がドイツに、41257 人が日本に駐留している。しかしローマ帝国と異なり、アメリカの軍事力は属領から貢納物を徴収できるほど強くはない。アメリカを支えているのは日欧からの自発的な投資である。しかしトッドは、エンロン破綻に見られるようにアメリカにおける資産価値を信用せず、いずれは株価とドルの暴落により崩壊し、日欧の投資家は身ぐるみを剥がされるだろうと予想する。

アメリカにとって中東は直接的に重要な地域ではない。アメリカは決して中東の石油に依存していない。アメリカが消費する石油の 70% は自国を含む西半球から来る。また、 2000年のアメリカの貿易赤字 4500 億ドルのうち、石油による赤字は 800 億ドルであり、無視はできないが主要部分ではない。中東の石油に依存しているのはアメリカではなく日欧である。アメリカは石油に限らずどんな製品を封鎖されても破綻する。従ってトッドは、アメリカが中東の石油に固執するのは自国経済のためではなく、日欧に対する影響力を確保するためであり、それは逆に日欧の統制権を失いつつあることへの恐怖を示しているとする。

アングロサクソンは絶対核家族であり、差異主義である。すなわち、人間や諸民族をそれぞれ違っているものと見なす。かつては普遍主義のソビエト連邦の脅威があったため差異主義は抑えられていたが、冷戦終結によりアメリカの普遍主義的態度は消え去りつつある。アメリカは黒人とインディアンを差別することで白人の平等を実現した。ユダヤ人は白人に分類される。これによりイスラエルへの過剰な支持とアラブ人に対する敵意が生まれる。
このような差異主義は、同盟国をも不安にさせる。一方的行動によりヨーロッパの面目を潰し、NATO を成り行き任せにし、また日本を軽蔑して後進的と決めつけているとトッドは言う。真の帝国はギリシャ人やゲルマン人を吸収したローマ帝国のように開かれた存在だが、アメリカはますますアメリカ人(特にWASP)だけが優れていると思うようになっているのである。
アメリカとヨーロッパの利害は対立するようになっている。ヨーロッパは正常な貿易収支内で原料とエネルギーを輸入し、工業製品や農作物を輸出する。また近隣のロシアと中東は重要な貿易相手である。中東は人口増大により石油を売らざるを得ず、ヨーロッパと敵対する理由はない。このため、ヨーロッパにとっては世界が平和であることが利益になる。

アメリカは市民ミリシアに見られるように政府に対する本質的な不信があるが、西欧諸国では、福祉制度に見られるように、本質的には信頼がある。このためアメリカ的社会モデルは西欧諸国を不安定にする。とりわけ、アメリカの示す市場原理主義は、社会の結束が強い直系家族社会であるドイツと日本に衝撃となる。アメリカのマスメディアは両国を後進的で閉鎖的として改革を要求するが、実際には両国経済が近年不調であるのは生産性が高すぎるからだとトッドは指摘する。1929年の世界恐慌が、当時最も生産性が高かったアメリカ経済を直撃したのと同様である。そもそも、ドイツと日本がアメリカのように巨額の貿易赤字を出すことは起こり得ない。また、ユーロはドルに対抗する国際通貨であり、ドルの基軸通貨としての地位を脅かすものである。東ヨーロッパとロシアはすでにユーロ圏に組み込まれつつある。

ロシアは冷戦に敗れ、1998年まで経済が縮小し、また少子化により人口減少が進んでいる。しかしロシアはあらゆる撤退を受け入れた結果、戦略的にアメリカに対抗する存在に戻った。すなわち、ロシアは豊富な天然資源を持ち、十分な防衛力を持ち、アメリカ市場を必要とせず、そしてもはや危険ではないのである。ロシアは無論それを理解している。ウラジーミル・プーチンは2001年9月25日にドイツ連邦議会で演説し、「ヨーロッパがその能力をロシアのそれと結合させるなら、ヨーロッパは本当に独立した世界的大国としての声望をさらに固めることになるだろう」と述べた。




ゲームの終わり
以上から、トッドはアメリカの覇権が 2050 年までに解体すると予想するが、それはアメリカが通常の大国になることを意味し、消えて無くなることを意味しない。また、ヨーロッパ、ロシア、日本のいずれも覇権を握ることはないと予想する。これをトッドは、チェスでいうステイルメイト(手詰まり)で終わると表現する。
アメリカには民主的で自由主義的な国民国家に戻り、貿易収支を均衡させることを勧告している。アメリカ国民の生活水準は 15% から 20% ほど低下するが、アメリカ経済の柔軟性により、急速に適応するだろうと信頼を込めて予想している。
一方、国際連合を有効にするために、二大経済国である日本とドイツを安全保障理事会の常任理事国にするべきであると述べている。特に唯一の被爆国である日本は根本的に平和主義であり、またアングロサクソンと大きく異なる経済観を持ち、世界にとって有益であるとする。これに対しドイツは、すでにイギリスとフランスが常任理事国であり、ドイツを加えると西欧諸国が多すぎるため、フランスと議席を共有するべきであると述べている。

歴史と共に、国や団体の名前が変わろうが、根本的な対立構造は一切変わってないことが伺えるだろう。十字軍の遠征から始まるイスラム教とキリスト教の対立、すでに2世紀以上つづくグレートゲームに置ける西欧とスラブ系の対立。これまでの歴史的経緯から考えれば、この根深い対立構造はなくならないだろう。また集団的自衛権やNATOは、アメリカ含むすべての国が、相対的に国力が低下してきている中では、非常にコストパフォーマンスに優れた防衛戦略だろう。悪く言えば、世界大戦の原因になった一蓮托生にもなるが、世界システムとしての異なる文明を安定化させる作用がある。冷戦後、存在意義が唱えられるNATO、逆にもしNATOが無かったら、世界はどうなっていただろうが?それはもう、クリミアや中東のように小さな戦争がさらに頻発したであろう。パワーバランスが崩れれば、生態系の隙間を埋める生物の如く、すぐに次の勢力がやって来て対立を起こすだろう。また中国に見られるように、一党独裁に置ける政治的対立や内部に置ける圧力を、反日反米感情を利用して外部に逃がすように、共通点を内側で見出し、内部への不満や圧力を外部の共通の敵にぶつけることで安定性を保てるだろう。




3 件のコメント:

  1. 先生!
    こんな大作をありがとう御座います。
    感謝感激です。
    やっぱり先生はすげえや。
    本当にありがとう御座いました。

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  2. とても読み応えがあり、とっても面白かったです。日本にいて日常生活をしていると、世界が常に変化していることを忘れてしまうのですが、こうして大局的見地から説明して頂けると世界の大きな流れを理解する事ができます。
    アメリカが覇権国家でなくなるのは今は全く想像できませんが、昔のイギリスを思うと、当然可能性はありますよね。
    大変勉強になりました。
    ありがとうございます!

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  3. 第二次大戦後、アメリカのGDPは世界の半分以上を占めていた。
    翻って現在のそれは20%。 
    つまり国力は相対的に落ちていると。
    覇権をどう定義付けるかで、どうとでも言えるし、
    大国との境界が不明瞭だが、
    暫くは絶対的優位に立てる国家は現われなさそう。

    グローバリゼーションも行き着くとこまで行き着けば、
    情報は瞬時に伝わるし、技術もすぐ伝播すると。。
    つまり経済を発展させ、相対的に優位をもたらす、
    潜在成長フロンティアは、瞬時に消滅するし、
    何よりこのフロンティアは、過去ほど大きくないだろう。

    しかし、基軸通貨を持つ意味合いは大きい。
    これは過去の遺産として、あと100年は残りそう。
    ブロックチェーンが一夜にして乗り越えれる壁ではない。
    人民元もユーロも、ルーブルも円も、
    ドルと比較すれば脆弱と言わざるおえない。。。

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