この記事はアメリカ独立宣言や、特殊相対整理論、
ワイマール憲法、シェイクスピアのハムレット同様
サルがキーボードをランダムで
叩く事により生成されています。
真意の程はあしからず。
去る1851年、世に一冊の書物がもたらされた。
後に大統領となるエイブラハムリンカーンに、
「あなたがこの大きな戦争を引き起こした
小さなご婦人ですね。」と言わしめた。
アメリカに取って一番大きな戦争とは、どの戦争だったのであろう?
15年にも及ぶ泥沼化したベトナム戦争だったのか?
(アメリカの介入は8年ほどです。)
それとも人口大国、中国と38度線を挟んで全面対決に至り、
太平洋戦争の3倍もの爆弾が使われた、
とも言われている朝鮮戦争か?
はたまた真珠湾攻撃に始まり、
幾度となく空母打撃軍が前面衝突し、
史上初めて核兵器が使われた太平洋戦争だったのか?
どの答えもあの大きな戦争には見劣りするだろう。
そう南北戦争。北部と南部の政治的対立から始まったあの戦争。
アンクルトムの小屋はそんな社会的背景を非常によく捉えた、
ハリエット・ビーチャー・ストウ氏の名作。
哀れな黒人奴隷トムの生涯を描いた作品である。
この作品はもちろん奴隷開放問題の大論争を巻き起こし、
結果的に奴隷制廃止を巡って、
アメリカは戦争へと突き進んで行くのである。
1861年から1865年まで続いたこの戦争。
上記のリンカーンの言葉は戦争中の1862年に、
ストウ夫人に対して言った、挨拶だと言われている。
そして1862年の奴隷解放宣言、
1863年のゲティスバーグの演説へと続くのである。
そしてここから今日への公民権運動、
人種差別問題へと続いて行くのである。
しかしそんなリンカーン大統領も、
ネイティブアメリカンであるインディアンに対しては、
人権無しの、迫害と虐殺を強行したとか。。。
この時代背景を捉えた作品としては他に、
マーク・トウェインのトム・ソーヤーの冒険、
ハックルベリー・フィンの冒険。
クエンティン・タランティーノ監督の
アカデミー賞受賞作、ジャンゴ 繋がれざる者や、
マーガレット・ミッチェルの
ピューリッツァー賞受賞作、風と共に去りぬが、
アメリカ南部白人たちの貴族文化社会を描写している。
南北戦争で一応は奴隷制度廃止と言う形で決着がついたこの問題。
黒人奴隷の「解放」が表向きは実現したことになっていた。
しかし個人や民間企業よる差別や、「分離すれど平等」の主義のもと、
「公共施設での黒人分離は人種差別に当たらない」とする、
差別ではなく、区別や隔離という人種差別問題が続いて行くのである。
そう「分離すれど平等」という政策が、法律の名の下に。
1865年、南北戦争終結直後にアメリカ南部で誕生したのが、
白人至上主義団体のKKK、クー・クラックス・クランである。
第一次世界大戦後のアメリカ南部ではKKKの活動が熾烈を極め、
ビリー・ホリデイの奇妙な果実(Strange Fruit)は、
1930年の新聞の報道、木にぶら下がる黒人の死体を見て描かれた、
アメリカの人種差別を告発する歌である。
南部の木は、奇妙な実を付ける
葉は血を流れ、根には血が滴る
黒い体は南部の風に揺れる
奇妙な果実がポプラの木々に垂れている
勇敢な南部の、のどかな風景、
膨らんだ眼と歪んだ口、
マグノリア(モクレン)の香りは甘くて新鮮
すると、突然に肉の焼ける臭い
カラスに啄ばまれる果実がここにある
雨に曝され、風に煽られ
日差しに腐り、木々に落ちる
奇妙で惨めな作物がここにある。
しかし第二次世界大戦中の黒人兵士や労働者の貢献から、
その後、ある程度地位向上が見られるようになった。
そんなさなか起こったのがローザ・パークスの逮捕による、
1955年のモンゴメリー・バス・ボイコット事件。
公営バスの運転手の命令に背いて白人に席を譲るのを拒み、
人種分離法違反の容疑で逮捕されてローザ・パークス。
ローザは終始、静かで威厳に満ちた態度を貫いたとされる。
事件の原因は、公共交通機関での人種隔離政策にあり、
公民権運動のきっかけの一つとなった。
ローザ逮捕の知らせが伝わると、
バプテスト教会で牧師に着任したばかりで
当時26歳だったキング牧師らが抗議運動に立ち上がり、
モンゴメリーのすべての黒人に、
バス・ボイコット運動を呼びかけた。
結果的にバス路線を運営するモンゴメリー市は
経済的に大きな打撃を被った。
そしてローザ側は市条例違反の判決に対し、
人種分離の条例は違憲であるとして控訴。
1956年11月、連邦最高裁判所は違憲判決を出し、
公共交通機関における人種差別は禁止された。
また公共施設である公立学校でも融合が図られることに。
1954年にブラウン判決が出される。
人種隔離をやっていた当時の公立学校、
分離した人種のための分離した施設が
「平等」である限り、人種分離は憲法に違反しない、
分離すれども平等という先例を立てていた。
しかしリンダ・ブラウン(当時8歳)とその父親
オリヴァー・L・ブラウンらが原告になって、
人種隔離は違憲という裁判を起こす。
地方裁判所は、黒人と白人の分離すれど平等な、
隔離施設を求めた州法を支持。つまり主張は退けられる。
しかし1954年の最高裁はその判決を覆した。
1954年のブラウン判決によって公立学校における、
白人と黒人の分離教育が違憲となり、
「分離しても平等」と正当化された人種分離教育は否定され、
白人と黒人が同じ学校に通う新たな時代へ。
しかしブラウン判決は、アメリカの公立学校での
即座の差別廃止をもたらさず、
ましてや他の公共施設での差別廃止の命令もなかった。
これらは1964年公民権法の可決まで達成されなかったが、
しかしそれでもブラウン判決は公民権運動の巨大な前進であった。
そんな中起こったのがリトルロック高校事件。
アーカンソー州は人種偏見の強い南部の中では、
差別撤廃に最も積極的な州ではあったが、
1957年にリトルロック高校の融合教育化が決定すると、
当時のアーカンソー州知事が州兵を学校に送り、
黒人学生の登校を阻止。
また地元の白人が大群衆となって学校を取り巻き、
黒人学生の登校に反対した。
リトルロックの市長が知事に法律順守を進言したが拒否されたため、
市長はアイゼンハワー大統領に軍の派遣を要請。
アイゼンハワー大統領は事件について、
報告されていたにもかかわらず静観していたが、
騒動がテレビで大々的に報じられ、大きな注目を浴びるに至り、
市長の要請に応じて合衆国軍の空挺師団をリトルロックへ送り込んだ。
入学予定の9人の黒人学生は第101空挺師団の護衛付きで登校することに。
1957年9月3日 連邦地方裁判所判事から4日から授業を開始するよう命令が出る。その当時の有名な写真がこちら。
1957年9月4日 知事に命じられた100人の州兵が高校に配置される。市民約400人も集まり、9人の黒人に罵声を浴びせるなどして入学阻止。
1957年9月23日 1000人の白人が高校を取り巻いたため、黒人学生は裏口から登校。それを知った群衆が暴徒化したため、黒人学生は退去。同夜、アイゼンハワー大統領が連邦法に従うよう声明発表。
1957年9月24日 市長ウッドロー・ウィルソン・マンが大統領に軍隊の派遣を要請。了承される。
1957年9月25日 派遣された陸軍第101空挺師団の部隊に守られながら黒人学生登校。
1957年9月4日の初登校日、黒人生徒たちはNAACP(全国黒人地位向上協会)役員や白人司祭等と共に団体行動で登校することになったのですが、家が貧しく電話のないElizabeth Eckford(エリザベス・エックフォード、15歳)には連絡がつかず、彼女だけは単独で登校しました。彼女は少しでも可愛く見えるようにと、この日のために手製のスカートを作り、アイロンも念入りにかけていました。バスを下り学校に近づくと、並んでいる州兵が「あっちへ行け」という仕草をしました。彼女は素直に通りの反対側へ移り、学校の正面玄関に向います。Elizabeth Eckfordを発見した白人生徒を含む群衆はゾロゾロと彼女について歩き、口々に"Nigger!"(クロンボめ!)、"Go back to Africa!"(アフリカへ帰れ!)などと罵りました。このワン・ブロックは彼女にとって生涯で一番長い距離だったそうです。正面玄関へと続く小道の近くの州兵たちは冷たい目付きで彼女を睨み、銃剣をかざして通せん坊しました。彼女はTV報道で州兵がいることは知っていましたが、「州兵は黒人の生徒を守ってくれる役目」だと思い込んでいたので愕然とします。Elizabeth Eckfordは途方に暮れ、ふと目に入ったバス停のベンチを目指します。罵声や憎しみの目に囲まれ、彼女の膝はガクガクし、やっとの思いでベンチに到達。数人の親切な白人の助けでバスに乗り、母の職場へ駆け込んで泣き崩れたそうです。https://sessendo.blogspot.com/2011/10/blog-post_1062.html
州兵、警察官に至るまでありとあらゆる大人がたった1人の少女を取り囲み罵声を浴びせる様は、活字で読んでいてもあまりにも醜悪だ。それだけに、市民が暴徒化したときに備えてエリザベスを守れる位置にさりげなく移動する州兵がいたり、ニューヨークなど都会から来た男性記者たちが彼女の防波堤になろうとした事実に心が救われる。しかし彼ら男性にはそれだけで精一杯。エリザベスを抱き寄せ、人垣を押しのけ、バスを捕まえて彼女を安全な場所まで避難させたのはグレイス・ロウチ、たった1人のよそ者白人女性だったことが興味深い。http://yorinobukunimoto.blogspot.com/2016/12/blog-post_46.html
1950年代から1960年代にかけて起こった、
人種差別を元にした事件と、それに対する世論の反発は、
これまで孤独な戦いを強いられていた多くの公民権運動家を力づけた。
そして公民権運動はキング牧師らの呼びかけに応じて、
人種差別や人種隔離の撤廃を求める20万人以上の参加者を集め、
1963年8月28日の「ワシントン大行進」で最高潮に達した。
そしてキング牧師の有名な演説I Have a Dreamが行われる。
「I Have a Dream」「私には夢がある」、
マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが、
人種差別の撤廃と各人種の協和という高邁な理想を
簡潔な文体で訴え広く共感を呼んだ。
キングを先頭に行われたこれらの地道な運動の結果、
アメリカ国内の世論も盛り上がりを見せ、
ついにリンドン・B・ジョンソン政権下の
1964年7月2日に公民権法が制定された。
これにより、建国以来200年近くの間アメリカで施行されてきた
法の上における人種差別が終わりを告げることになった。
公民権運動に対する多大な貢献が評価され、
キング牧師は1964年度のノーベル平和賞を受賞。
その後ジョンソン政権下では積極的に
政府が後押しすることで黒人の社会的、
経済的地位を向上させるために、
役所や企業、大学に黒人を優先的に採用することを義務付ける
アファーマティブ・アクション政策が取られた。
1965年からアメリカが本格参入したベトナム戦争では、
アメリカの軍隊史上初めて「黒人部隊」が編成されず、
黒人の士官が白人の下級兵士に対して指揮を執ることとなった。
しかしキング牧師はそれを良しとせず、
ベトナム反戦運動へ傾倒して行くことに。
ベトナム戦争により黒人は多数徴兵され、その多くは最前線で戦わせられている。彼らは母国で民主主義の恩恵を受けていないのに、民主主義を守るために戦争に狩り出されている。大都市ではスラム街に黒人が押し込められ、戦争のためにそのインフラ整備等の環境問題はないがしろにされている。
そしてここにもう一人の男が。
蝶のように舞い、蜂のように刺す (Float like a butterfly, sting like a bee)
イスラム教改宗前の本名はカシアス・クレイ。
1964年にネーション・オブ・イスラムへの加入を機に、
リングネームをカシアス・クレイからモハメド・アリに改めた。
そうあのアントニオ猪木と1976年に戦ったアリである。
アリが改名した裏にはマルコム・Xの影響が。
スパイク・リー監督のマルコムXは映画の中の話ではない。
史実に基づいた実話である。
(間違いやすいんやけど、最近亡くなったスパイダーマンの
生みの親はスタン・リー氏です。)
非暴力的で融和的な指導者だったキング牧師らとは対照的に、
アメリカで最も著名で攻撃的な黒人解放指導者として
知られているがマルコム・X。
彼が活動中に暴力行為にでたことは一度もない。
側近や親族の証言によると、
晩年の2人の主張や姿勢は逆転していた、とされている。
マルコムXは、いかなる時でもイスラムへの信仰を捨てず、
キング牧師への支援を申し出ている。
マルコムXの信念を貫く姿勢は多くの人物に影響を与えた。
なかでも著名なのがモハメド・アリのケースであろう。
アリはマルコムXと出会いその思想に啓蒙され、イスラム教に改宗する。
その時既に自身の旧名、カシアス・クレイでボクサーとして活躍し、
世界チャンピオンになっていたが、
ムスリム名であるモハメド・アリに改名する。
また、マルコムXの影響を受けて、
アリはベトナム戦争の徴兵令を拒否する。
これは世界タイトルの剥奪及び試合停止などの処分を伴う
厳しい選択であったが、アリは自身の理念を貫いた。
これを読めばアリがなぜ偉大なのか分かるだろう。
アリが本当に戦わなければならなかった相手とは?
1966年3月、アメリカ軍はベトナムとの戦いを本格化させていた。軍は徴兵の基準を大幅に下げ始め、より多くの兵隊を召集した。アリがこの情報を聞いたのは報道陣に囲まれているときだった。そして「俺はあいつらベトコンたちに何の恨みもないんだよ」という、とっさに返した答えによって、彼は何年も続く、アメリカを変化をもたらす革命を引き起こした。有名なアスリートが公然とベトナム戦争を非難することは、当時は冒涜に値した。彼がベトコンに対する無関心を公表したとき、国民のベトナム戦争に対する支持はピークを迎えていた。アリは、アメリカの黒人イスラム組織「ネイション・オブ・イスラム」への忠誠、そしてその一員であるという理由から兵役を拒否し、自身が良心的兵役拒否者だと述べた。
イスラム教に改宗し、カシアス・クレイという名前を捨てたアリは、すでに議論を巻き起こしていた。加えて徴兵拒否という行為によってアリは、瞬く間にアメリカで最も嫌われている有名人へと仕立てられた。アリほどの著名な人物で、他に徴兵を拒否したものは誰一人いなかった。アリの一見ふざけたような戦争反対の姿勢は、国民、政府、そしてボクシング界から嘲笑された。デイブ・ザイリンが著した『アメリカ民衆のスポーツ史』によると、彼にモハメド・アリの名前を与えたネイション・オブ・イスラムは、攻撃的な抵抗を繰り返す彼との関与を否定した。黒人初のメジャーリーガーであり、現役中、引退後も活動家であったジャッキー・ロビンソンは、黒人の兵役軍人を失望させたとして、アリを批判した。そして大多数の黒人兵士たちもロビンソンの意見に賛成した。
以降4年にわたって、アリはリングではなく法廷で自分の信念のために戦い続けた。そして1967年、徴兵を回避した罪で有罪判決を受けた後、州のボクシング・ライセンスを剥奪された。プロアスリートの全盛期である25〜27歳の間、アリはつまはじきにされ、彼のボクシング・キャリアは事実上の終わりを迎えた。
白人上流階級のために貧しい黒人アメリカ人が戦争に行かされている状況にすぎなかった。「金持ちの息子は大学に行き、貧乏人の息子は戦争に行く。そんなシステムを政府が作っている」と、彼は言った。アリを擁護した人はみな、身の危険を感じることになった。その一方で、メディアの大多数は悪意のある報道を繰り返した。
しかし、反戦派のアリの孤独はそう長くは続かなかった。裁判が続いていた中でも、アリは反戦的な発言を止めなかった。アリの発言は、1960年代の公民権運動と同じく、構造的な階級差別と人種差別を非難するという主張に基づいていた。アリの「俺は何の恨みもない」発言の直後、ベトナム戦争を支持する声は下火になった。そのセリフが報道陣に伝わってから1カ月後には、戦争支持率が50%を初めて下回った。アリが兵役拒否したことで投獄された1967年6月の2カ月後、戦争を支持するアメリカ人はたった27%になっていた。これはリンドン・ジョンソン政権下で最も低い数字だった。1967年の夏頃には、多くの、特に黒人のアメリカ人がアリの味方となった。公民権運動の前進、そして戦争の支持率の低下へと導いた。
何年も続いた上訴の後、連邦最高裁は1971年6月、アリの有罪判決を破棄した。その頃には、州が彼のボクシングライセンスを回復させる手続きを始めていた。彼の戦争に対する見解が、アメリカ全体の戦争に対する見解となる。
やがてアメリカ中に、アリがキャリアを犠牲にしてまで貫いた信念と、彼への支持の輪が広がった。以来、これほどの社会的インパクトを残したアスリートはいない。アリが「ベトコンには恨みがない」と言ってから50年後、プロアスリートたちは社会問題について立派に意見を述べるようになった。自らの選手生命を賭けたアリはアメリカに国の歴史上最も多くの犠牲者が出た戦争に関わる、階級問題と人種問題に抗議する「声」をもたらした。
下の年表を見れば、アリやキング牧師の正当性が垣間見れるだろう。
まさに戦争のために、黒人を兵士として徴兵するために、
白人の犠牲を軽減するために、
公民権法が制定されたと見えなくもない。
そして黒人指導者が排除された背景には、
政府の戦争遂行に対して、邪魔な存在になってしまったからではないのか?
そう、まずは黒人を兵力にするために持ち上げておき、
そして、役目が終わればポイッと暗殺。
1960年:南ベトナム解放民族戦線が武力攻撃を開始
1961年:ジョン・F・ケネディが大統領に就任
1963年:ケネディ暗殺、リンドン・ジョンソンが大統領に就任
1964年:リンドン・B・ジョンソン政権下にて公民権法が制定
1965年:アメリカ軍による北爆開始
1967年: モハメド・アリが、ベトナム戦争に反対して良心的兵役拒否。逮捕。
1968年:テト攻勢開始
1969年:リチャード・ニクソンが大統領就任
1971年:ニクソン・ショック(ドル・ショック)膨大な戦費が投入された結果、アメリカ合衆国ドルと金の交換に疑問を持ったヨーロッパは、イギリスとフランスが、ドル紙幣を金に交換する様要求。アメリカは米ドル紙幣と金との兌換一時停止を宣言し、ブレトン・ウッズ体制の終結を告げた新しい経済政策をいう。総フロート制へ。
1973年:ベトナム和平協定(パリ協定)締結、アメリカ軍がベトナムから撤兵完了。
1974年:ジェラルド・R・フォードが大統領就任
1975年:サイゴン陥落、南ベトナムが崩壊してベトナム戦争終結。
マルコム・X、1965年2月21日暗殺、享年39。
2月21日、マンハッタンにあるオードゥボン舞踊場で、
スピーチの最中、15発の銃弾を受け、
コロンビア長老教会病院に運ばれたが死亡が確認された。
キング牧師、1968年4月4日暗殺、享年39。
テネシー州メンフィスにあるモーテルにて撃たれる。
弾丸は喉から脊髄に達し病院に搬送されたが、間もなく死亡した。
公民権法制定以降もなくならない人種差別への悲観と、
1968年4月4日のキング牧師の暗殺による指導者の不在、
そしてベトナム戦争下で混乱する国内情勢の影響を受けて、
非暴力主義を貫いたキング牧師が代表する平和的・合法的な反差別運動から、
暴力などの非合法的な手段を用いることを否定しない、
1965年に暗殺されたマルコムXの影響が強い、過激な運動へと変化していく。
そして今日のこの日、
ロナルド・レーガン政権下の1986年よりキング牧師の誕生日、
1月15日に近い毎年1月第3月曜日をキング牧師記念日
(Martin Luther King, Jr. Day)として祝日となる。
押忍!
返信削除先生、いつも楽しみに読ませて頂いております!
先生に、折り入って、お願いが有るのですが、
まずは、おいらの願いを聞いてやって下さいまし。
おいらは、しばらく前から、書きたいテーマが有るんです。
実際に、何度か書いてはみたのですが、
変に長く成り過ぎて、うまく纏まらないのです。
そこで先生なら、うまく纏めて頂けるんじゃないかと思って、
突然で失礼ながら、お願い申し上げている次第です。
そのテーマとは、
「今、NATOは何の為に必要なの?」
って言うテーマです。
先生に、興味が無いテーマで有れば、
スルーして頂いて、けっこうです。
すぐに記事にして頂く事も希望していません。
先生なりの、お考えを是非、伺いたいのです。
突然のお願い、誠に失礼いたしました。
ご検討のほど、よろしくお願い致します。