2019/10/21

英国で37年ぶりの土曜議会、前回はいつ?




ダヴィンチ、最後の晩餐、このあと誰かがキリストを裏切るとか、裏切らないとか。。

英国で37年振りの土曜議会です。因みに37年前はフォークランド紛争の時でした。今回の議会は、今週の欧州首脳会議で合意した英国離脱案を議会で採決にかける為に、土曜日にもかかわらず緊急招集されたものでした。結果は、否決でも可決でもない、決定の先送りとなりました。

今回採決の先送りが決定したことで、形の上では、英国政権にはブレグジットを延期させることが義務づけられているのですが、見通しは不明。採決が保留になった理由は、まだまだ議論の余地があると言うよりは、問題の無意味な先送りといった意味合いが強いです。不毛な議論で何も決められない背景には、未だにEU派と離脱派で世論が真っ二つに割れているため。

欧州首脳会議の時の記事です。




今回の採決の先送りを受けて、ジョンソン英首相は、「EUと延期を交渉するつもりはなく、法律もそれを強要していない」と述べ、22日に協定案を採決にかける考えを強調した。果たしてジョンソン氏は議会を裏切り、延期なしのハードブレグジットとなるのか?一応、今後の可能性を列記。
1、来年1月末へ延期
2、合意案が可決、否決
3、延期なしのハードブレグジット
4、EUに残留

どうせ採決にかけても否決されるだろうし、このまま採決に掛けずに保留のまま時間切れのゲームオーバーにる可能性も。この場合、延期をEUに申請することになりますが、EU側が拒否する可能性も。もしくはジョンソン英国首相が議会を裏切るか。。

欧州連合という経済実験、社会実験もそろそろ佳境です。もし水が高いところから低いところに流れるなら、やはり歪みの大きいこの実験は失敗に終わる運命にありますww。

これは何度か記事にしたのですが、ドイツにとっては安いユーロによりドイツの競争力の維持を許し、他国にとっては高いユーロにより競争力を落とすこととなり、実質的にドイツの経済植民地となってしまうからです。つまり欧州諸国からドイツに富を献上しているのが本質だと。




さて、前回の土曜議会を振り返って見ましょう。。

1960年代当時の英国は、充実した社会保障制度や基幹産業の国有化等の政策が実施され、「ゆりかごから墓場まで」と呼ばれる社会保障制度が確立されていきました。しかし70年代以降、英国病や欧州の病人と呼ばれるように、社会保障負担の増加、国民の勤労意欲低下、既得権益の発生などにより、経済的に行き詰まり大きく停滞しました。これらの政策は主に労働党政権によって推し進められてきたものでした。規制や産業の国営化などによる産業保護政策はイギリスの国際競争力を低下させ、経済成長を停滞させることになりました。

差し詰め今の日本もこんな感じの低成長で、英国病と似ているところが。違いは経常収支が黒字なため、日本人は勤勉なことを物語っている。しかし国民は莫大な経常収支の恩恵や、好調な実体経済を実感できず、バブル以前の右肩上がりの経済とは違い閉塞感が漂う。すでに失われた30年が、今回の増税で40年となりそうな勢いなで、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」といった感じの、「皆で貧すれば怖くない」の足の引っ張り合い経済により、お金は有るのに死に金となり、ずぶずぶと沈んでいく「日本病」状態。。

話は70年代の英国に戻り、国有化による競争力不足などで製品の品質が劣化していき、イギリスは国際競争力を失っていき、輸出が減少し、輸入が増加して、国際収支は悪化していきました。そこに追い討ちをかけたのがオイルショックでした。慢性的な高インフレーションのなか、不況に喘ぐスタグフレーション経済に突入。

イギリスでは経済成長率が低下し、税金収入が減少していき、財政の赤字は増加して、国債の累積残高が増加し続けていった。1976年には財政破綻し、国際通貨基金から融資を受けることとなった。このことから、政府は財政支出の削減を余儀なくされ、公務員の給与抑制が課題となった。また、社会保障制度を維持しようと歳入増を試みるようになった。




所得税の最高税率が83%と極端な累進課税で、これらの税制度や充実した失業保険は勤労意欲の低下や社会的活力の減退を招いていきました。スタグフレーションを克服するために時の政権は労働組合と賃金抑制の交渉をしたがうまくいかず、1970年代になると、イギリスでは様々なストライキが断続的に続き、医者や看護師のストで病院は機能せず、給食婦のストで学校は休校し、ゴミ収集人のストでゴミは回収されず、墓堀人のストで死者が埋葬されず、トラック運転手のストで暖房用の灯油が配達されない等の現象が起こった。

時の政権であった労働党は有効な対策を打ち出すことはできず、結果として社会の不満を生み出すこととなり、「不満の冬」と呼ばれるように。そこであの女性、「鉄の女」の登場です。1979年の総選挙では保守党が勝利し、5月にはサッチャーが政権に就いた。サッチャー内閣は、国有企業の民営化、金融引き締めによるインフレの抑制、財政支出の削減、税制改革、規制緩和、労働組合の弱体化などの政策を推し進めていった。

これらの政策により英国病の症状は克服されていったが、サッチャー在任中は不況は改善されず、失業者数はむしろ増加し、財政支出も減らなかったことや、反対派を排除する強硬な態度などからサッチャーは在任中も、辞任後も国民の中に大きな批判が起こった。なぜこれほどまでに傍若無人な振る舞いができたのか?





マーガレット・サッチャー(1925年10月13日 - 2013年4月8日)は、イギリスの政治家、サーの称号を持つ女男爵。イギリス初の女性首相(在任:1979年 - 1990年)。保守的かつ強硬なその政治姿勢から「鉄の女(英: Iron Lady)」の異名を取ったことで知られる。

略歴
冷戦中の欧州に平和をもたらすヘルシンキ条約を痛烈に批判。
アルゼンチンに対しては徹底的な武力行使を主張。
ドイツ統一には懐疑的な姿勢で反対。 
取り敢えず超好戦的な人物で反平和主義、破壊神「この内閣に男は1人しかいないのですか?」が有名。もちろん欧州連合みたいな馴れ合いにも大反対。

民営化により失業率が増大、賃金は下がる。
イギリス経済を奈落の底に突き落とした血も涙もない人間。
取り敢えず、イギリス人全員を貧乏にするのが目標。「金持ちを貧乏にしても、貧乏人が金持ちにはなりません」。
強固的な姿勢により「鉄の女」の異名を取る。「銅像ですね…銅もいいですよね、錆びないから」が有名。英国議会議事堂内に銅像建立に際し。

基本、好戦的で平和を憎み、一度言い出したら聞かない性格、尊敬する人物がチャーチルだったこともそれを物語る。最終的に求心力は低下して、首相辞任に追い込まれる(1990)。晩年は認知症が進み、夫が死亡したことも忘れるほど記憶力が減退していたとも。2013年、脳卒中のため死去、87歳没。

こちらの記事も参考に
ブレグジットの行方




改革には痛みが伴う。非効率な国営産業とその巨大な組合、混合経済の失敗が原因だと流言することに成功したサッチャーは新自由主義に基づき、電話・ガス・空港・航空・自動車・水道などの国有企業の民営化や規制緩和、金融システム改革を掲げ、小さな政府政策を強いリーダーシップで断行した。

しかしサッチャー政権においては賃金が下がり、イギリスの失業率は第二次世界大戦以降最悪の数字を記録した。サッチャー政権が始まった1979年には約5%であった。1980年の物価急上昇には政策金利を上げることで対処したが、インフレ抑制に重点を置きすぎた。サッチャリズム開始と共に失業率は上昇し、1983年には11%台にまで悪化した。その翌年には失業者が300万人を突破し、その後も高い失業率が続いた。サッチャー政権において、英国の失業率は世界恐慌以降最悪の数字を記録した。

クイーンとボウイの名曲、アンダープレッシャー(1986)が書かれた背景には、こういった停滞する社会的背景があった。ミュージックビデオには、大恐慌当時の一場面が収められている。この停滞を壊したいという思いから、何かを破壊したり、それを逆再生したりと。
Pressure pushing down on me
Pressing down on you, no man ask for
高度経済成長期からバブルへと向かう日本とは対照的だったのが当時のイギリス。




公共投資を抑えた緊縮財政は、不況の長期化と企業淘汰による失業率の上昇を招いた。金融業中心の産業の推進・効率化は貧富の格差を拡大させた。1979-1987年の雇用削減率は平均34%に達し、鉄鋼では90%に達したが、国有企業の生産性は低い企業で20%、高い企業で70%上昇した。

1970年代から1980年代前半まで、イギリスでは労働組合によるストライキが頻発に起き恒常化していたが、サッチャー政権による労働法改正などによって、1986年以降はストライキは激減し、経済は安定していった。つまり生産性の向上やサッチャリズムとは、首を切り、低賃金で労働者を働かせ、不満を言わせないことだと。こうして対外的にはある程度の競争力を取り戻し、それをもってサッチャーを評価する向きもあるが。。。

経済発展というのは新たな効率的な方法が生み出されれば、それと同時に古い非効率的な方法は駆逐される。ヨーゼフ・シュンペーターはその経済活動における新陳代謝を創造的破壊という言葉で表現した。資本主義は、成功ゆえに巨大企業を生み出し、それが官僚的になって活力を失い、社会主義へ移行していく、という理論を提示した。マーガレット・サッチャーは、イギリスがこのシュンペーターの理論の通りにならないよう常に警戒しながら政権を運営をしていたといわれている。



どのようにしてサッチャーは強権的な独裁を断行し、傍若無人な振る舞いが出来たのでしょう?これはもちろん支持率に関係する。それでは、今日のその時です(笑)wwwww。

2nd April 1982, At midnight Argentina puts Operation Rosario into action by bringing ships into position off the Islands.
3rd April  1982, Labour party leader Michael Foot backs the decision to send the task force.
今から37年前の1982年4月3日土曜日、前日に受けた、「ロザリオ」作戦でフォークランド諸島に侵攻してきたアルゼンチンに対して、英国議会は土曜日に緊急召集が掛けられる。会戦か?対話か?経済制裁か?

サッチャー「この議会に男はいないのですか?」

議会は消極的だった。イギリスにとって、フォークランド問題はごく一部の政治家や官僚のみが知るのみの問題であった。1960年代に入り英国病に苦しむ状況下では、同諸島の維持そのものが負担となっており、アルゼンチン側への売却という案も検討されていた。しかし実際には、アルゼンチンへの帰属を望む島民は皆無であり、またイギリス側でも、議会やマスコミは諸島返還には反対の方針を貫いていた。

4月3日の土曜議会、野党労働党マイケル・フット党首は、与党の保守党で政権を率いるサッチャー内閣と会戦で合意。1979年の総選挙で労働党がマーガレット・サッチャー率いる保守党に敗れて下野すると、それに伴って党首選挙が行われることになり、新党首に就任したのがこのマイケル・フット氏。現在でも保守党と労働党は確執があるが、この時だけは速やかに決定。




領有権をめぐってイギリスとアルゼンチンは対立こそしたが、アルゼンチンを治めていた自由主義者の政権はイギリスと友好関係を保っていた。しかし1976年に軍のクーデターで誕生した軍事政権は、それまでよりも弾圧の姿勢を強めて、軍部による政治の混乱が天文学的なインフレと失業を招き、国民生活を深刻な状況に陥れ、1980年代に入って頂点に達しようとしていた。

こうしたなかで、1981年に軍事政権は、民衆の不満をそらすために、マルビナス諸島(フォークランド諸島のアルゼンチン側の呼称)諸島の領有権問題に目をつけた。フォークランド諸島領有権問題を煽ることで、国内の反体制的な不満の矛先を逸らせようとしたのである。

最近の韓国と構図は一緒。民衆の不満の捌け口は外へ逃がそうww。何を考えているか分からない国より、こういった分かりやすい国は好きwww。




後手に回るイギリス、誤り続けた情勢判断
1982年2月27日、ニューヨークでイギリスとアルゼンチンの会談が持たれた。そして3月1日、「イギリス側に解決の意思がない場合、交渉を諦め自国の利益のため今後あらゆる手段を取る」との公式声明を発表した。これはアルゼンチン側からの明確な警告であったが、アルゼンチンが極端な行動には出ることはないというイギリスのあまい見通しと、もしアルゼンチン側が武力に訴えるとしても同年10月以降になるであろうという推測があった。

しかしブエノスアイレス駐在の英国大使は「もしイギリスがアルゼンチン側の要求を受け入れなければ、3月中の武力行使もありうる」との情報を入手して本国に伝達したが、狼少年と見なされてしまい、重視されなかった。

1982年3月19日、アルゼンチン海軍艦艇がフォークランド諸島のイギリス領サウス・ジョージア島に2度に渡って寄港、イギリスに無断で民間人を上陸させた(サウスジョージア侵攻)。それに対してイギリスは、氷海警備船と軍用ヘリ2機を乗せて同島海域に派遣したが、これに対抗して、アルゼンチン海軍もコルベット2隻を派遣した。

アルゼンチン側の強硬姿勢に驚いたイギリス側は、偶発的な衝突を避けるため、警備船をサウスジョージア島沖に待機させ、状況を監視させた。イギリス側は、戦闘行為がフォークランド諸島にまで飛び火することを恐れており、問題の範囲をサウスジョージア島に留めておきたいと考えていたが、アルゼンチン側を抑止するのか撃退するかという根本的な方針を定めないまま派遣したために、対応が中途半端となり、かえって危機を悪化させてしまった。

イギリスは危機の収束のためには譲歩もやむなしとしたが、アルゼンチン側の軍事評議会において、サウスジョージア島から部隊を撤収させないということが決定されてしまう。イギリス側も、外交的手段による状況の打開が極めて困難になっているということを、ようやく理解した。このように情勢が加速度的に悪化しているにもかかわらず、依然としてイギリスの対応は鈍かった。イギリスの情報機関は、3月22日になっても、あくまで問題はサウスジョージア島であって、フォークランドにまで侵攻して来るなどとは想定していなかった。

3月31日の時点においてすら、「アルゼンチンはサウスジョージア問題を逆手にとって交渉の材料にしようとしている」として、サウスジョージア島で挑発してイギリスの行動を誘うことがアルゼンチンの目的であって、よもや先に仕掛けて来ることはないであろう、との判断であった。




しかし同日、アルゼンチンの海兵部隊一個大隊が4月2日にはフォークランドのスタンリーに達するということ、そしてブエノスアイレスから在英アルゼンチン大使館に対してすべての機密書類の焼却命令があったという決定的な情報を傍受した。事ここに至り、イギリス政府も、ついにアルゼンチンの狙いがフォークランド諸島にあり、情勢が想定を大きく超えて急迫していることを理解した。

サッチャー首相はアメリカ合衆国に事態収拾の仲介を要請しており、4月1日、レーガン大統領が仲裁にあたるも失敗。このような外交的手段と並行して、イギリス側も重い腰を上げて、軍事的な対応に着手していった。

1982年3月下旬頃よりアルゼンチン海軍の動きが活発化し、ウルグアイ海軍との軍事演習と称して空母、駆逐艦、フリゲート艦、潜水艦、輸送艦などの移動を開始。空母「ベインティシンコ・デ・マジョ」を旗艦とした第79機動艦隊を陸軍4000名の将兵を載せ、フォークランド諸島へ出撃させる。
イギリス側はこのアルゼンチン側の動きを諜報部などの活動によって察知していたが、その艦隊の明確な動きの情報が当時のイギリス首相マーガレット・サッチャーら首脳部に伝えられはじめたのは3月29日のことであり、アルゼンチン艦隊が明確な侵攻を行うとの情報を入手したのは同31日のことだった。サッチャーは同日の夕方に関係閣僚の招集を行い、機動艦隊派遣の検討を始めるとともにアメリカ大統領ロナルド・レーガンへアルゼンチンの説得の依頼を電報で行ったがレーガンが翌4月1日夜に行ったガルチェリとの電話会談による説得は失敗し、外交による戦争の阻止は不可能な所に来ていた。




現地時間4月1日23時、グリニッジ時間2日未明、アルゼンチン軍はロサリオ作戦を発動、最初の部隊がスタンリー付近に上陸して、本格侵攻を開始した。「ロザリオ」作戦と名付けられたこの作戦はアルゼンチン海兵隊を中心とした900名の兵員を中心とした上陸作戦であり、国際世論を見越して極力イギリス側に死者が出ないように配慮されていた。未明の出来事なら、朝には議会の緊急招集をかけられると思われるかも知れないが、当時はインターネットも携帯電話すらもない、伝言ゲームが本質的な情報伝達手段。

3月31日の時点で、サッチャー首相は、2隻の軽空母を中核として、第3コマンドー旅団を伴った機動部隊の編成を下令しており、4月1日夜の閣議で、機動部隊をフォークランドに派遣することが決定された。アルゼンチンの侵攻に対して、サッチャーが既に任務部隊派遣の準備が整っていることを表明すると、世論はこれを熱狂的に支持した。

そして2日未明のアルゼンチンによる上陸作戦から、明けた3日の英国土曜議会、アルゼンチン軍の侵攻に対し、イギリスは強硬策で対応し、機動艦隊を派遣することを即座に決定。1982年4月5日にはイギリス機動艦隊の第一陣が出撃。そして4月6日には、サッチャーはイギリスの伝統に基づいて戦時内閣を設置し、サッチャーと数名の閣僚によって意思決定を行える制度を整えた。

アルゼンチン側はフォークランド諸島防衛のために戦力増強を図るが5月1日に開始されたイギリス側のブラックバック作戦を皮切りにイギリス側からフォークランド諸島への逆侵攻を受け、2か月の戦闘の結果、6月14日に島都ポート・スタンリーをイギリス軍に奪還され、アルゼンチン守備部隊が全面降伏したことで再度フォークランド諸島はイギリス側の手に渡った。



その後、アルゼンチンの軍事政権は崩壊して政変が起こるが、アルゼンチンの国際的信用は戻らず。海外から投資資金が入らないため、常に経済的苦難を強いられ、デフォルトの債務放棄を幾度となく繰り返し、またそれが信用の下落を招くという悪循環。86年のワールドカップでは、マラドーナ率いるアルゼンチンが神の手によりイングランドを破りその雪辱を果たす。しかし日韓ワールドカップでは、モヒカンの貴公子デビット・ベッカムが借りを返す。もちろんアルゼンチンの主な輸出品はメッシとマラドーナww。

サッチャーの強硬な姿勢によるフォークランド奪還は、イギリス国民からの評価がきわめて高い。戦前不人気をかこっていたサッチャー首相の人気が急上昇した。イギリス経済の低迷から、支持率の低下に悩まされていたサッチャーは、戦争終結後「我々は決して後戻りしないのです」と力強く宣言し、支持率は73パーセントを記録する。フォークランド紛争をきっかけに、それまで不人気だったサッチャー首相は続投し、ここにサッチャー無双の独裁体制が整い、痛みしかない保守的かつ急進的な経済改革の断行に向かう。

もともと反平和主義者で破壊神のサッチャー首相は、欧州懐疑論の立場をとっていたことは通説で、欧州連合や統一通貨には反対の立場だったが、周りに押される形で止む無く他の欧州諸国に追随することに。当時としては知るよしもなかったが、サッチャー首相の判断は正しかったと言え、今その清算が再び土曜議会において行われようとしている。

ユーロ加盟の前段階となるERM加入には強く反対の立場であったことは事実でした。「事がうまく運んだとしてもERM加入はプラスにはならない。事がうまく運ばなかった場合はERM加入は状況を悪化させるだろう」とサッチャーは考えていた。もともとERMはドイツマルクの増価を防ぎドイツの競争力を維持し他国の競争力を落とすことを目的につくられたものだった。

経済アドバイザーも、ERM加入はスターリング・ポンドへの投機攻撃の圧力を強くするだろうと懸念していた。ERMは為替レートの安定どころか不安定化の要素だとし、ERMに加入すべきではないと。結局は側近らに押される形でサッチャーは1990年にERM加入を認めるが、その2年後に英国はERMから離脱することになる。




そうポンド危機、あのジョージ・ソロスがポンドを売り始め、他のファンドなども追随、結果としてジョージ・ソロスはこの取引で伝説を残すだけではなく、英国のユーロ加盟を防ぎホワイト・ウェンズデー(白い水曜日)とも呼ばれる。

もともと固定相場制の金本位制だったが、ニクソンショック以降世界の為替相場は総フロート性に突入。しかしながらこの変動を抑えるのがERMであり、人為的に変動幅を決め、経済情勢を無視した為替レートがまかり通ることになる。サッチャーによる経済政策の迷走の結果、不況に喘いでいた英国のポンドは過大評価されることとなり、実勢に合わない高いポンドに目をつけたのがこのジョージ・ソロス。持論は「相場は必ず間違っている」、「イングランド銀行を潰した男」(The Man Who Broke the Bank of England)の異名を取る。。

当時の欧州は、ドイツが統一されたこともあり、投資需要が多く欧州の金利は高目に推移していた。高めの金利は欧州通貨の増価をもたらした。ERMによって欧州通貨と連動したポンドは、不況にも関わらず欧州に合わせて金利を上げらざる得ず、次第に過大評価されていくことになり、持続可能性を喪失していった。

イギリスの経済力に比して通貨ポンドが政府により無理に高く固定されていると考えたジョージ・ソロス、短期間に巨額のポンド売りを行った。ポンドを売り浴びせ、安くなったところで買い戻すという取引を実行することになる。これによりポンドは大きく下落した。イギリスはユーロ導入に向けポンドをERMのルールに基づき固定させる必要があったため、イギリス政府・財務省はポンドの下落に対し買い向かったが、資金が尽き、固定相場制を解きERMを脱退、ユーロ導入を断念した。

1992年9月になり、ポンドへの売り浴びせは激しさを増した。

9月15日には激しいポンド売りにより変動制限ライン(上下2.25%)を超えた。

9月16日にはイングランド銀行がポンド買いの市場介入に加えて、公定歩合を10%から12%へ引き上げ、さらにその日のうちにもう一度引き上げ15%とした。しかし、それでも売り浴びせはとまらなかった。事実上のERM脱退となったこの日はブラック・ウェンズデー(暗黒の水曜日)と呼ばれている。

9月17日、イギリスポンドは正式にERMを脱退し、変動相場制へ移行した。




「ブラック・ウェンズデー」が起こり英国がERMから離脱した際のこの一連の出来事(通貨危機)は、結果的に「英国病」に苦しんでいたイギリス経済が改善するきっかけとなったことから、現在では「ホワイト・ウェンズデー」とも呼ばれている。ドイツマルクと為替レートを収斂させる必要がなくなり、金利はすぐに下がり、借入れコストは減少した。為替レートに関してもポンド安になり、ポンドが主要国通貨に対して大幅に減価したことによりイギリス製品の価格競争力が高まったことなどから輸出は大きく拡大した。。

経済危機以降低迷する南欧はPIGS、もちろん豚さんに必要な餌は同様の措置となるが。。。今、英国経済が比較的堅調なのは、ブレグジットの騒動でポンド安が続いているためでもある。逆にユーロは相対的に高く維持され、高すぎるユーロはイタリアやスペイン、ポルトガルには足枷となる。昔は1ポンド2ドルだったのが、1ポンド1ドルの時代になりつつある。

イギリスがERMを脱退しユーロ導入を断念して以後、イギリス国内経済は、1993年より2008年まで長期に渡り失業率の改善・安定経済成長・安定インフレ率を実現した。ソロスの動機はもちろん収益を上げることであり英国を救うというものではなかったが、結果的に英国経済はポンド安と金利が下がったことで浮上し、英国をユーロ圏の外に位置させることになった。

通貨ユーロに取っては、英国の金融マーケットを取り込めず、世界の金融市場へのアクセスが遠のいたことで利便性を失う。また経済情勢が異なる国々において、共通通貨はその構造上軋轢を生み、歪んだ構造物に対して安定化させる力を有していいないため、この経済実験もERMと同じ結果を遠くない未来に残しそう。。

サッチャー首相の行った経済政策、サッチャリズムとは一体何だったのか?生産性を向上させたことは評価されるが、不況、高失業率などの経済的損失を補うほどではなかった。さらにポンドを他の欧州通貨と固定することで、不況を長引かせ多大な経済的損失を英国にもたらし、多くの人を失業に追い込み不幸にさせた。もちろんそのERMに加盟したのは、他ならぬサッチャー首相である。しかしながらフォークランドの功績もあって総合的な評価では意見が割れる。まあ首相がサッチャーじゃなくても、同じ結果になったという指摘もあるがww。。私は好きですよ独裁者。まあこんなのに首相になられたら、国民は堪ったもんじゃないが。。。




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